★ブルーベリーのジャム作り 活力鍋で

ブルーベリージャム

知人からブルーベリーをたくさん頂きました。
知人は知り合いの方の庭で大量に収穫したそうで、そのおすそ分けだと言っていました。
軸をとり、きれいに洗っての差し入れなので恐縮しました。

【材料】  ①ブルーベリー1120g  ②三温糖450g  ③レモン1個

【作り方】
 1.ブルーベリーと三温糖それにレモン果汁を活力鍋に入れ1時間放置。
   長時間放置すればするほど果汁がにじみ出てくる。
   急ぐ時は、時をおかずに軽くかき混ぜるだけでも良い。
 2.活力鍋で強火。オモリが触れだしたら、軽く触れる程度の加熱で2分。自然冷却。
   普通の圧力鍋ならば10分程度だろうか。
   ブルーベリーの皮はけっこう強いので、煮崩す感じの加熱が必要。
 3.フタを開けると果汁が驚くほど出ている。これを中火でアクをとりながら煮詰める。
   焦げ付かぬよう気を遣いながらのこの作業が一番面倒。
 4.熱湯消毒したビンに詰めて出来上がり。

普段は電子レンジでチャカチカャッとジャムを作ります。アク取りも煮詰めるのも電子レンジの方がずっと簡単です。
が、今回はブルーベリーの量が1kgを越えています。そんな大きな耐熱ボールを持っていないので活力鍋で作りました。

アサヒ軽金属の活力鍋は普通の圧力鍋よりも圧が高いので、加熱時間が少なくて済みます。
その分高価ですが、メンテもしっかりしており、使い捨ての調理器具ではありません。

さて瓶詰が5個できました。
これに手作りシールを貼って冷凍庫保管です。
これだけあれば1年分ですが、友人知人に分けたりすると喜ばれます。
けっきょく、お土産用のジャム作りみたいなものです。

いすみ市はブルーベリーの産地でもあり、ブルーベリーを育てている方は多い。
何有荘でも育てていましたが、手入れが悪くて枯れてしまいました。
最近は購入するか、頂き物か、不自由しないのはうれしいことです。
産地のそばで暮らすというのはいいことです。

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暑いですねぇ…。室温31℃、外気温35℃。何もやる気がしません。
調べてみたら昨年も今日は猛暑日でした。
すでに8月7日の立秋は過ぎたのに、地獄のような残暑です。

72年前、一瞬の閃光とともにこの世に、まさに地獄が出現しました。
“正義の爆弾”は72年後の今年、ようやく人類と共存不可能と国際的に認定されました。
日本政府がその先頭に立って世界の平和を実現することを望みます。



 

★戦争末期、人間魚雷“回天”基地が大原にもあった。

人間魚雷回天断面図
     回天断面図 魚雷に乗り込み敵艦に突入する兵器

東京芸術座が8月15日から 『父を騙(ダマ)す 72年目の遺言』 を上演するといくつかの新聞で取り上げられていました。
認知症になりかけた父を騙して施設に入れようとする家族に対し、すべてを忘れ去る前にこれだけは語り残したいと、父が語り始めたことが人間魚雷“回天” です。

それとは別に2年前の8月15日にあるブログで、「18歳 回天特攻隊員の遺書」が掲載されました。

―――

お母さん、
私は後3時間で祖国のために散っていきます。  


胸は日本晴れ。 
本当ですよお母さん。
少しも怖くない。  

しかしね、
時間があったので考えてみましたら、
少し寂しくなってきました。

それは、
今日私が戦死する、通知が届く。 
お父さんは男だからわかっていただけると思います。  


が、お母さん。 

お母さんは女だから、
優しいから、
涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも
兄ちゃんが死んだといって
寂しく思うでしょうね。
 

お母さん。

こんなことを考えてみましたら、
私も人の子。やはり寂しい。

しかしお母さん。
考えて見てください。 
 
今日私が、
特攻隊で行かなければ、
どうなると思いますか。  

戦争は
この日本本土まで迫って、
この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。


母さん

今日私が特攻隊で行かなければ、
年をとられたお父さんまで、
銃をとるようになりますよ。


だからね、お母さん。  


今日私が戦死したからといって
どうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。 
お母さんは優しい人だから。  


お母さん、

私はどんな敵だって怖くはありません。


私が一番怖いのは、
母さんの涙です。

―――

わたしが住むいすみ市の大原にも漁港に隣接して巨大な地下回天基地が建設されました。
回天が格納され、港内にレールで引き出されるための開口部が一つだけ残っています。
大原回天跡地

幸いなことにと言って良いのかどうか、特殊魚雷回天を載せた輸送船が大原に向かう途中で米軍の攻撃を受けたのか、敷設された機雷に触れたのか沈没しました。

大原で待機していた特攻隊員は不完全燃焼のまま終戦を迎えました。
わたしの叔父(93歳)も予科練崩れで、戦後はいろいろあったようです。
今は、戦争なんかない方が良い、平和が一番だよと言っているのは遺言のようなものだと心して聞いています。


 
 

★岬町出身、田中哲郎上飛曹(20歳)の手紙 

銀河陸幕
  田中さんが搭乗し戦死した海軍の「銀河陸爆機」(画像元Wiki)

戦争末期、菊水作戦と称する特攻攻撃が行われました。
作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられました。
沖縄諸島周辺でのこの特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死しました。

その戦死者の中に岬町宮前出身の田中哲郎さんがいました。
――戦没年月日はS20.04.07。戦没場所は沖縄方面――と『岬町史』にあります。

上飛曹でしたが、戦死による階級特進で海軍少尉となりました。
4月7日の神風特攻隊は、*第四銀河隊/宮崎 *第四建武隊/鹿屋 *第三御楯隊706部隊/宮崎の三隊が出撃しています。
そのうち、第三御盾隊706部隊 に田中哲郎さんの名前が見えます。航空局委託練習生第13期とあり、海軍が開発した「銀河陸爆」に搭乗して帰らぬ人となりました。

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早苗ちゃん 風邪をひかないか、元気で、毎日、日参に又学校に行って居りますか。
寒いから気をつけなければいけないよ。
早苗ちゃんが病気になると兄さん、うんと心配しちゃうからね病気になんか成るんじゃないよ。
雪が降ったことがあるかい。兄さんの居る処は時々降るよ。此処には高い高い山が有るんだよ。
ホラあすこに見えるタイトウミサキの山を、二十くらい積んだ山がね。
こんな高い山、早苗ちゃん見たこと有るかい。なに、有る、どこで、なあんだ、ユメでかい。
・・・・そしてねこの山はずっと前から、雪の着物を着て真っ白だよ。だからずいぶん寒いよ。
だけど兄さんなんか平気だよ。どうして、それはね、どんどん駆け足やったり、体操やったりするからだよ。
だから早苗ちゃんもどんどん運動するんだよ。そうするとあたたかくなるし、病気なんかにもならなくなるよ。
だけど、早苗ちゃんは女だから、あばれたりしちゃだめだよ。
喜久ちゃんをたたいたり、おとうさんやおかあさんの言ふことはよく聞くね。
それからもうひとつ幹ちゃんをよく見てやるんだよ。ずいぶん大きく成っただろうね。
かはいいだろう。早苗ちゃん勉強するんだよ。もうじき三年生になるんだものね。
この間、愛子ちゃんから、かはいい手紙が来たよ。早苗ちゃんも喜久ちゃんと書いて、くださいね。
兄さん、待っているよ。

兄さんはね毎日元気で赤いトンボのような飛行機にのって飛んで居るよ。
小さな舟や白いホを上げたホカケブネやいろんな形をした島のういた青い青い海の上や村の上
町の上をブンブンとね。 では早苗ちゃん手紙を待って居るよ。
  
                              ――文書発信元はここ
――――――

田中哲郎さんの手紙は遺書という体裁ではありませんし、雪が積もっている山など書かれていると、そこはどこか? と思います。
兵士は今どこでどんな任務をこなしているかを家族に連絡することが許されません。
赤とんぼのような飛行機で訓練しているということは、家族はもしや特攻隊かと不安に思うに違いありません。
わざと今は九州にいることをはぐらかし、妹に対し優しく話しかけるような手紙を書いています。
家族に心配をかけまいとする優しい性格の方だったのだろうと推察いたします。

4月7日は戦艦大和が沖縄方面へ特攻出撃し、坊の岬沖で撃沈された日でもありました。
駆逐艦8隻、巡洋艦1隻を従えた大和は僚艦5隻を含め3721名とともに海に沈みました。

今思えば無謀な戦争で、勝つ見込みのない戦争を続けてました。
国民全員が死を覚悟する“一億玉砕”が政府=軍部の合言葉でした。

その苦い経験から自衛隊の最高指導者は文民、つまり軍人ではないと規定されています。
ところが文民であるアベ氏やイナダ氏が「日報」を隠し、「戦闘」という言葉を「武力衝突」といい変え、自衛隊員に戦闘状態の現地にとどまることを強制しました。
文民統制(シビリアンコントロール)という歯止めが効いていない状況です。

破棄したはずの「日報」が出てきた背景には、明らかに制服組によるアベ・イナダ不信感が潜んでいます。
制服組(軍人)でさえ、文民であるアベ氏やイナダ氏は危険人物だ、部下を死地に追い込んでいる好戦的司令官だと反発したのでしょう。

憲法9条を改正した偉大な首相との名誉欲しさのために、自衛隊員の犠牲を考えずに突っ走るアベ首相。
自衛隊員も昔と変わらず田中哲郎さんのように家族思いの方が多いと思います。
現在の9条を守り抜くことが、平和な日本を守り抜くこと、自衛隊員の命を守り抜くことにつながることでしょう。


 

★ゴーヤの佃煮

ゴーヤの佃煮

まだいすみ市に定住せずに通っていたころ、夕食を食べた地元の食堂でみかけない佃煮が出されました。
これはもしかしたらゴーヤなのかとおかみさんにたずね、そのレシピを聞き取りました。
その後、自分で工夫したり、最近はググって他の人のレシピを参考にしたりしました。

私好みの、面倒くさくなく手軽で美味しい佃煮レシピは 【農家のレシピ】ゴーヤの佃煮 でした。
以下、ほぼ丸ごとパクリです。

【材料】
ゴーヤ 500g  醤油 50cc  砂糖 100g 酢 40g カツオ節 10g  ゴマ 適量

【作り方】
 1.ゴーヤは縦に切ってスプーンなどで種と中の綿を取り除きます。
 2.2ミリくらいに薄く切り、熱湯にいれサッと茹で、水けをしっかりと絞ります。
 3.砂糖、醤油、酢をあわせて沸騰させ、その中にゴーヤを入れて中火で煮ます
 4.汁気がなくなるまで煮込み、最後にかつお節とゴマを入れば出来上がりです。

このレシピの良い所は、特別な材料は必要とせず、今、台所にあるもので出来上がる点。
ゴーヤは油物、あるいはたんぱく質と相性が良いと言われます。
だから豚肉、じゃこ、豆腐、揚げ豆腐、卵などとよくコラボされます。

ゴーヤチャンプルなんか典型的ですね。
当時はゴーヤチャンプルしか知りませんでした。
でも冷蔵庫にいつも豚肉、じゃこ、豆腐があるとはかぎりません。
カツオ節さえあれば成り立つ和風の定番 “佃煮” はゴーヤの消費方法として優秀です。

アレンジは何とでもできることが、また魅力です。
  合わせられる食材は豚肉や豆腐の他に、エノキ、シイタケ細切り、ひき肉、ドライトマトなど。
  味付けの変化:味噌味、唐辛子少々、柚子胡椒少々など。

考えるだけならば、無料で自由ですから、あれやこれや想像の翼を広げるのは楽しいことです。
失敗したって実被害はありません。
これはうまそうだ、という組み合わせが煮詰まったら実際に作ってみましょう。
うまくいったら、心ひそかに自慢です。


 

★いすみ市大原庁舎で「いすみ市の戦争遺跡」展示

戦争遺跡展示
      市庁舎ロビーにて

いすみ市は非核平和都市宣言をしている自治体で、毎年、8月になると戦争と平和に関する何らかの行事を行っています。
今年は広島の原爆資料館から資料をお借りして『原爆の絵展』が開かれています。
8月1日~16日。土日祝日を除く。

この展示の一画をお借りして 「いすみ市の戦争遺跡」 が展示されました。
市民の方から市役所に 「岬町の戦争遺跡を調べている人がいる」 と電話があり、市役所から 「9条の会岬」 に連絡があり、そこから私の方に連絡が入りました。

わざわざ市役所の人が二人見えて、協力を依頼されましたので、断るわけにもいかず承諾しました。
いすみ市からは市内全図を頂き、そこに戦争遺跡と関連施設を書き込み、画像もラミネート加工してはりました 

また一昨年の 『岬町戦跡ツアー』 関連資料とスナップ写真も展示しました。

記入してみると結構あることに驚きます。
普段は戦争による傷跡などまるで気にならないのどかな田舎ですが
色々あったんだろうなぁと思います。

さいたま市では、「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」 という俳句が、恒例となっている公民館だよりの俳句欄への掲載を拒否されるという事件がありました。
アベ首相が憲法改正を日程に上げる中、首相の意向に反する俳句だと公民館が忖度して掲載拒否になったものでしょう。

いすみ市では9条の会であっても差別せず、戦争遺跡の資料公開を認め、促したのはありがたいことだと思います。
ただ、戦争遺跡とは意見、政治信条ではなく、事実ですからね。
自衛隊海外派兵賛成の人でも、戦争遺跡がここにある、あったという事実は否定できません。
その事実から現代を生きるわたしたちが、何を学び取るかが問われているのでしょう。

今回の展示資料には載せませんでしたが、いすみ市岬町地区には4カ所の「忠魂碑」があります。
岬地区4カ村出身の戦死者の名前が刻まれています。
ある日突然、赤紙(召集令状)1枚で軍隊に編入され、そのまま帰還できなかった若者の名前が刻まれています。

今日の平和は数多くの若者や、巻き込まれた一般市民の犠牲の上に築かれました。
いわば、平和のための人柱として犠牲になったと言っても良いでしょう。

国際政治の緊張・軋轢の解決手段として戦争をすることを私たちは永久に放棄しました。
国家利益のため、あるいは首相の個人的名誉のために、国民・自衛隊員に死ねと命じることは人道に反すると学んだのでした。

ことし も暑い8月になりました。
わたしの叔母(母の妹)は夏の夜空に開く花火の音が嫌いだと言っておりました。
焼夷弾の音を思い出すからだそうです。
夏の花火を心から楽しめる、そんな時代が永久に続けばいいなと思います。