★川回しの風景(2)、崩落した隧道 

  
   
 左=養老渓谷・弘文洞跡。クリックで拡大します
  右=★印・撮影場所、  〇印・弘文洞跡、 赤帯・推定旧川床

画像左隅、下の方に人物が米粒のように写っていますから、隧道の大きさが判ります。
江戸時代末期に掘られた隧道ですが、昭和54年(1979)に崩落しました。
崩落前の画像→●(Panoramio)

ここは養老渓谷の断崖の向こう側を流れていた夕木川を無理やり養老川に合流させるために掘られた隧道の崩落地です。
夕木川を養老川に合流させれば、夕木川の下流域の河床を水田として利用できると考えた村人によって掘られた隧道でした。

川の流れの付け替え工事を房総では「川回し」といい、千葉県の中山間地に多くある新田開発法です。
断崖にトンネルを掘り進めて川の流れを変えてしまおうというのは随分大胆な発想ですね。
重機がない時代にノミとタガネ、クワなどで掘り進んだのでしょう。新田開発の情熱がこの難工事を支えたはずです。
人間の力もなかなか偉大だと感嘆する景色でした。

江戸時代はさほど大きな隧道ではなく、せいぜい人の背の高さ程度の大きさだったと思われますが、天井部分が少しずつ崩落したのでしょう。次第に大きな隧道となり、養老渓谷の温泉が東京の奥座敷として人気が高まるにつれ「弘文洞」と名付けられ観光名所になりました。

わたしも学生だった頃に訪れ、付近でキャンプした思い出があります。
その時はこの「弘文洞」という名前に何の疑問も感じなかったのですが、千葉県民になって改めて調べてみると、弘文天皇にちなんだ名だということで驚きました。

弘文天皇とは天智の息子(大友皇子)で、壬申の乱(672年)により天武によって攻め滅ぼされました。
その弘文天皇は実は戦死せずに房総に落ち延びたという伝説が地元の市川市に多数あります。
義経伝説と同じように「死なせたくなかった」という民衆の思いが生み出した伝説でしょう。

それはともかくとして、弘文洞が崩落してから30年以上たち、崩落時はそれなりに大きく報道されたのに、国土地理院の地形図では相変わらずトンネル状に記載され続け、最近になってようやく訂正されました。
国土地理院の古い地形図を下書きにしているヤフーやグーグル地図、マップルやゼンリンの地図はいまだにトンネルの中を夕木川が流れて養老川に合流しているように描かれているのが情けない。

写真画像や衛星画像では当然ながらちゃんと切通しに写っています。
新しい道ができたり、廃道になったり。意外と地図はあてにならないものです。

               川回しの風景(1)→●
 

関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント