★鹹水(カンスイ)とともに吹き出る天然ガス 

 
  大多喜・山崎屋前の「天然瓦斯井戸発祥之地」の碑 

外房、とりわけ夷隅(イスミ)地区では昔から鹹水と呼ばれる塩水が吹き出ることが知られていました。これは化石海水とも呼ばれる古代の海水でヨードや硫黄、天然ガスを含んでいます。この鹹水が農民にとっては悩みの種だったことは先週述べました。

この鹹水から天然ガスを分離してエネルギー源としたのは明治24(1891)年5月のことでした。
大多喜・上原の山崎屋という醤油業を営む太田卯八郎は商売を広げるため、庭に新しく井戸を掘り始めた。ところがきれいな水脈には当たらず、茶色のブクブク泡の出る水しか出てこない。これでは商売にならない。卯八郎は煙草に火をつけて思案したが良い方法があるはずもない。おもわず煙草を投げ捨てると突然水が青白く燃え出し、腰を抜かさんばかりに驚いた――という話が伝わっています。

面白い話ですがどうやら後世の作り話らしい。
大多喜町史などを参照すれば、卯八郎は庭先に吹き出る泡を天然ガスとみて掘削を試み、約225mの深さに達した時に轟音と共に硫黄分・塩分を含む鹹水が吹き出し、同時に産出したガスは1分間で18リットル余を沸騰させる能力があった。
これが我が国の近代的なガス利用の始まりとなり、大多喜は「天然ガス井戸発祥の地」の名誉を担っています。
当時の掘削方式は昔からの「上総掘り」という竹に金具をつけて掘り進む方式でした。
この方式は現代にも伝承され、アジア・アフリカで水道のない地域での井戸掘りに日本のNPOらによって活用されています。

画像の記念碑はバス停上原の横にあり、そこが最初のガス井戸だったようです。記念碑には繁栄した山崎屋の銅版画と「天下無比水素瓦斯(ガス)」の説明板があります。

また、ほぼ同年代に大多喜町紺屋の西尾発造が深度約182mの井戸を掘ったところ、褐色の鹹水とともに天然ガスが噴出し、家庭燃料や灯火に利用したといいます。
やがて大多喜地区には何本ものガス井戸が並ぶようになりますが、関東大震災で壊滅的な被害を受けます。ガスが枯れたり、まったく新しい場所に吹き出たりと人々は困惑しました。

昭和6(1931)年、わが国最初の天然ガス事業会社として「大多喜天然瓦斯株式会社」が創立され、大多喜地域で都市ガスの供給を行うようになります。
東京ではもちろん明治の初期からガス灯などガスの供給と利用はありましたが石炭を蒸し焼きにして得たガスを利用していました。東京が地下の天然ガスを利用し始めるのは戦後の昭和26年からの話です。
国産の天然ガスを利用した都市ガス供給は大多喜がわが国最初となり、その記念碑がいすみ鉄道と旧国道(街道)が交差する付近の旧大多喜天然ガス施設の中にあります。
画像↓
 

大多喜に限らず、ここ岬町でも田んぼからブクブク泡が出ているのを見かけます。
このガスを家庭用に利用している人は岬町でも何人かいます。
里山仲間のUさんは長らく湧き出した天然ガスで調理したり、冬の暖房に使っていましたが最近「枯れた」と嘆いていました。同じくAさんは今度上総掘りで掘り出すのだとはりきっています。

わたしは、「都会は都市ガス、田舎はプロパンガス」と思い込んでいたのですが、そう単純なものではないことを初めて知りました。
この近辺の天然ガスは「南関東ガス田」と呼ばれる広大な地下資源の一部に過ぎませんでした。各地で様々な「都市ガス」として利用されています。 南関東ガス田↓
        

その過度な利用が江東ゼロメートル地帯など様々な弊害を起こしたことも忘れてはいけないことでしょう。

 

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