★いすみ市の清水寺と坂上田村麻呂 

 
    高台を昇ると立派な本堂がある

いすみ市の清水寺は坂東三十三観音霊場第32番札所であり、地元では清水観音として親しまれ、バスで観光客も訪れてきます。
正しくは音羽山(オトワサン)清水寺(セイスイジ)といい、京都の清水寺と山号寺名がまったく同じで、どちらも坂上田村麻呂ゆかりのお寺です。
田村麻呂は征夷大将軍として東北の「鬼ども」を成敗して、朝廷の領土を拡張したことでよく知られています。(少なくとも戦前は)

近畿地方で成立したヤマト政権にとって東北侵略は悲願でした。
『日本書紀』景行天皇27年、武内宿禰は 「東の夷の中、日高見(ヒタカミ)国がある。その国の人は男も女も身に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷という。また、土地は肥沃で広大である。征服してとるべきだ。」 と進言し、景行40年に天皇は日本武尊に東征を命じています。 

日高見国は肥沃な土地だから征服すべきだというのですが、真のねらいは東北の砂鉄、金銀銅、そして馬。奴隷労働力も狙いの一つでしょう。
日高見・ヒタカミの地名は現在の北上・キタカミ川の名として残っています。

ところがヤマトの軍勢は連戦連敗。776年には上総、下総、常陸4国から船50隻、782年には房総3国、相模、武蔵、常陸などの諸国から食料10万石を調達して陸奥攻略を進めたのに撃退されたのでした。(供出を命じられた方も飢死寸前だったことでしょう)
そこで渡来系氏族の末裔である田村麻呂の登場となります。797年、将軍に任じられた田村麻呂は万全の軍備と態勢を整え、東北侵略に旅立ち、攻略に成功します。

 この時の戦闘の様子を含めた東北侵略の顛末(テンマツ)は500年後に描かれた京都の「清水寺縁起絵巻」に詳しく、東北人は犬や獣、鬼のような姿で描かれています。(画像元:東京国立博物館)
鬼畜米英ではなく、鬼畜蝦夷というところでしょうか。
蛇足ですが、この時に東北人が掲げたシンボルマークが白地に赤丸。つまり「日の丸」は蝦夷(エミシ)のシンボルであるとして室町時代の絵師・土佐光信が描いたことは興味深い事実です。

さて、田村麻呂は房総各地で兵員を招集し、軍備を整えたので房総各地に田村麻呂伝説が残っており、いすみ市の清水寺もその一つです。
当時、夷隅(イスミ)は朝廷の屯倉(ミヤケ)=直轄地であったために、まず夷隅に入り、戦勝祈願をした場所が現在、清水寺のある高台だったとわたしは推測しています。

その後、敗戦国(=日高見国)の人々はいわば「奴隷」としてヤマト支配下の各国に配分されます。
ところが房総では848年、870年、875年と立て続けに「奴隷」の反乱がおきます。
わずか数十名の反乱に対して、その鎮圧に動員されたヤマトの兵士は房総三国の他に武蔵、上野、常陸、下野などの兵士ですからその反乱の必死さとヤマトの政府の驚愕ぶりが想像できます。

ヤマト勢力による反逆者の虐殺とは内房総の 「鬼泪山」 伝説が思い浮かびます。
千数百年前にそのような血なまぐさい事件があったことは事実としても詳細は不明で、山河は黙して語らず。おだやかな景色が広がっているだけです。

岬町鴨根にある清水寺のほぼ真東に加茂神社があります。
古い昔にこの地域一帯が賀茂氏によって開拓されたことが察せられます。房総には賀茂氏の足跡が数多く、房総半島南部の鴨川はとくに有名です。そして鴨川は現在でも製鉄関連企業があり、古くからの砂鉄の産地です。
わたしが川崎・いすみを往復する途中にある高滝湖畔にある高滝神社も賀茂氏の氏神様を祀っておりますし、大原の町中にも賀茂神社があります。いずれも砂鉄関連の地域です。

すると岬町鴨根も砂鉄関連の土地柄ではないかとの推測が生まれます。
清水寺の寺伝によれば、伝教大師が関東布教の途中、道に迷った師を案内した樵夫が実は熊野権現であったそうです。紀伊半島の熊野は賀茂氏の出身地です。
伝教大師は”金沢谷”といういかにも砂鉄産出を暗示させる谷から輝く光を見て観音様を感得し、そこに庵を建てたといいます。これが清水寺の始まりで、時代は延暦年間(782~806)のことですから田村麻呂出陣の前後です。
清水寺は現在も千手観音・十一面観音を祀っており、この観音様は古代の砂鉄関連従事者の信仰を集めておりましたから、清水寺が昔は砂鉄関連寺院だった気配は濃厚です。
そして近くには謎の”大門の鉄仏頭”があり、この近辺が古くから砂鉄精錬・鋳造・鍛造地帯だったことが推測されるのですが、残念ながら科学的発掘作業は進んでいません。

平安京は渡来系氏族の秦氏が用意した土地であり、京都の地主ともいうべき神様が“葵祭”で有名な上下の賀茂神社です。
渡来系氏族出身の坂上田村麻呂にとっても京都の賀茂氏とは旧知の間柄であったはずです。京都の清水寺は田村麻呂が深く帰依していましたから京を立つときには必勝祈願をしたことでしょう。
そして遠い上総まで来てみると、賀茂氏の支族に出会った。
上総の賀茂氏配下の金属精錬技術者たちが尊崇する観音様が鴨根の高台にあると知った田村麻呂は京都清水寺の観音様のお導きだと感激し、ここで必勝祈願を行なった。そして勝利した。その満願成就の御礼として京都清水寺と山号寺名が同じ「音羽山清水寺」を莫大な資金を寄進して建立したのだ--とわたしは推測しています。
田村麻呂の東北鎮圧が802年。鴨根の観音様の草庵が関東の清水寺としての堂宇が完成するのが807年。戦勝祈願・満願成就の寄進であったと見るべきでしょう。
坂上田村麻呂の偉業を後世に広める「戦勝モニュメント」としての寺院建立だったみることも可能です。

 ※いすみ市近辺の砂鉄関連記事を連載してきましたがこのテーマはひとまず終了いたします。
 ※清水寺なら清い水です。清い水に棲息する「梅花藻」が花咲かせていました。

 

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