★黒い海岸――砂鉄の夢 

 
   太東海岸(和泉浦北)にて

はじめて夷隅川近辺の海岸を見た時に「外房になんでヘドロがあるんだ?」と思ったものです。砂鉄の海岸など見たことなく、ヘドロの海岸しか知りませんでしたから。
海岸の様子は日によって異なり、画像の日は砂鉄が目立たない日でした。

古代から鉄は貴重な鉱物資源で、古代人による房総開拓は実はこの海岸砂鉄が目当てだったという仮説をわたしは密かに抱いています。
それはともかく、明治維新後の近代化により、鉄はいくらでも必要になりましたが国内の鉄産出量は不足し、当時、約80%を輸入に頼っていました。
昭和になり暴力的なアジア侵略が露骨になると日本は今の北朝鮮やイランのように世界中から経済封鎖を受けます。鉄の輸入も困難になりましたが、それで心を改めるような大日本帝国ではなかったのはご承知の通りです。

昭和15年、隣町の東浪見(トラミ)に県立の砂鉄採集鉱業所が設立され、各村落に勤労動員がかけられました。しかし敗戦と共に衰退に向かいます。
それよりも前、大正時代からいすみ市大原の日在(ヒアリ)の海岸で砂鉄を集め膠(ニカワ)で固めて東京に輸送するという原始的な方法の採掘が行われていました。
太平洋戦争中は東亜特殊鉄鋼が日在海岸の大規模な開発に乗り出し、最盛期は従業員700名、外房線三門(ミカド)駅付近には精錬工場と事務所があったと言います。

当時の様子を見てみましょう。人夫が木製の掻き寄せ棒で砂鉄分の多い砂を集め,塵取り状のものに入れて運び,足踏み式の選別機にかけ,それを50kg~100kg入る箱に入れ,二人がかりで天秤棒でかつぎ集積場に運んだ。そして,それを浜に敷かれたトロッコに乗せ,選鉱場まで延々と押していったそうです。
初期のころ,砂鉄はそのまま貨車に積まれましたが,その後、三門工場に溶鉱炉が建設されてからは,集められた砂鉄はまず浜から三門駅まで小型の機関車によって運びこまれ、製団・焼結・焼成の過程を経て豆炭状の粗鋼となります。そこから専用の引込線の貨車に積まれて遠くの精錬工場に送られたそうです。
何有荘のある和泉地区でも昭和砂鉄太東工場が稼働し、日産10t~15tの「鉄団子」を長者駅、太東駅から送り出しており、将来は地元の天然ガスを利用して銑鉄にまで加工する計画がありました。

しかし戦争が最終局面になると生産もまままらず、敗戦後はそれなりに生産活動は続けられましたが昭和30年代に、「需要の減少」から操業は終わりました。

『大原町史』、『岬町史』には「需要の減少」としか書かれていませんが、操業停止には大きな背景が二つあったと想像されます。
国策遂行のためにと口を封じられていた人々が戦後になって「公害反対」の声をあげてきたのです。
砂丘を切り崩し、防風林を切り倒してきたことに住民や農民は強い危機感を覚えました。工場の廃液・排煙も農業や生活に大きな支障となったことでしょう。
漁民にとってもアワビやイセエビの優良漁場の目の前で行われている工場操業は死活問題でした。「海を汚すな」の大合唱を押しつぶしてまでの操業のメリットがなくなってきた。これが第一の背景でありましょう。
第二の背景は国家の後押しがなくなったことです。政府は戦後国家再建のために、京浜工業地帯などに諸工業を集約し、巨大産業を育成する方針をとっていました。外房の中小鉄鋼業は見捨てられたのです。

その結果、わが川崎は長く悲惨な公害に住民は悩まされることになり、いすみは健康な海と空と緑を回復します。
いすみ市に当時の面影を残すものは何もなく、海岸には浜昼顔が咲き乱れています。
かろうじて日在潟海岸と陸地を結ぶ水門、そこから三門駅方面に通じる1本の細い直線道路――かつて砂鉄を運んだ小型蒸気機関車の軌道跡が往時を偲ばせるだけとなりました。

参考(1)

1962 年1 月現在砂鉄鉱床分布および開発地域図(千葉県商工労働部商工観光課 1962)

参考(2)
東日本大震災復旧・復興対策特別委員会の「県内調査報告書(その2)」は千葉県旭市椎名内地区の液状化原因として,「このあたりは50 年ほど前に砂鉄を採掘していた場所であり,それを埋め立てたためではないかと考えられている」と指摘している。

 

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