★いすみ市大原と砂鉄 

 
  静寂な山中の雰囲気の中にある「日月神社」

旧大原町の中でも昔からの本当の大原ともいえる地区に三つの神社があります。
  ①瀧内神社(日本武尊)、②鹿島神社(武甕槌神)、③日月神社(日神・月神)。
やはりヤマトタケルが大原にも絡んでいました。ならば砂鉄も必ず海岸で見つかるでしょう。なにせ鹿島神社は刀剣・軍事力の神様であり、刀剣の原材料は砂鉄です。
この三つの神社は元は一つ「日月神社」だったという伝説があります。

伝説では、東征途中の日本武尊が日月神社の裏手の山に土民とともに昇り、朝日を遥拝したので土民が小祠を建て「日の大神」を祭ったといいます。 
「土民」だなんてすごい上から目線ですね。それはともかく、昇る朝日に心を新たにして決意を誓うのは大昔からの日本人の習性なのでしょう。
この時点では「日本武尊来訪記念碑」みたいな祠ではなく、あくまでも太陽を祀る祠でした。
やがて平安時代・貞観年間(859-876年)に「月の神」を合わせて祭り、「日月の宮」と称し、この地を日月谷と呼ぶようになったそうです。
日月だけをともに祀る神社は多そうで、実はそう多くはない神社です。
この地域の場合、太平洋の潮の干満を支配する太陽と月とを「偉大なる自然神」として恐れ敬った「漁民の神社」の性格が強く感じられます。
この時、同時に祠を建てて日本武尊と武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祭ったそうで、これが現在の瀧内神社(大井地区)並びに鹿島神社(貝須賀地区)の起源になります。

この三社は昔から、上座(カミクラ)三社または単にカミと称して、今なお「大原はだか祭」参加十八社の中でも別格扱いであるのは大原の古い歴史を背負っているからでしょう。
中でも最上位にあるのが地元の総社でオヤガミ様と呼ばれる鹿島神社です。
裸祭りの喧騒の中でも鹿島神社の神輿(ミコシ)の振る舞いにすべての神輿が従う伝統があるという権威ある神社です。

さて、画像の日月神社を参拝したついでにさらに奥へ車を進め、飯縄神社のある矢指戸(ヤサシド)の小さな港に行きました。期待した通り、真っ黒な砂鉄が堆積していました。
「日本武尊伝説に砂鉄あり」はここでも確認できたのです。

鹿島のタケミカヅチ神は『古事記・日本書紀』によれば天皇家の武力の象徴で、出雲国譲りを武力で強要した神であり、神武の大和盆地攻略を支援した神様です。
そのタケミカヅチを信仰する集団がかなり昔に大原に来て、旧来の「日の大神」グループと連携しつつ、周囲を圧する確固たる地位を築いたのでしょう。
かれらは貝須賀地区に社殿を建立して鹿島神社としました。

貝須賀という地名には神奈川県の横須賀と同様、須賀という文字が入ります。
須賀は砂鉄を含む砂地の場所を意味する場合が多く、実際、横須賀では砂鉄がとれます。
貝須賀に鹿島神社とは、なるほどあるべき場所に建立されたものです。

かれらは大原の海岸砂鉄から農器具、漁具、刀剣・鎧兜などの戦闘用具、鍋釜包丁など生活用具を作り出す特殊技能を持って地域の信頼をかちとり経済的な支配力も強め、やがて地域の総社の地位を獲得していったのだと思われます。
貝須賀付近に鋳物谷(イモノヤツ)という地名があることを地元の漁師の拓さんから教えていただきました。

貝須賀の近くの造式(ゾウシキ)という地名は意味不明ですが、平安時代の「雑色」という身分と関連があるのでしょう。造式地区はある時期、中央政府の下級官僚の支配下にあったと思われます。
それは大原が農林漁業の中心地であるだけでなく、鉄生産手工業の拠点として交易の中心地であったから栄えたのではないでしょうか。

造式にある瀧泉寺は鹿島神社の別当寺院で鹿島神社と利害を一にしていました。
このお寺は元は布施地区にあったそうで、布施には源頼朝の旗揚げに多大な功績を残した上総介広常の居城があったと(地元では)信じられています。
その広常が布施城の鬼門封じのために大原造式地区に移転を命じたと言われます。
そして、今はまったくその気配さえありませんが、瀧泉寺の南には一辺が100mほどの正方形の堀をともなった広常館がありました。
このことは大原地区全体が上総介広常の支配下に入ったことを意味しています。
広常が大原を重要拠点としたのは、武器の原料である砂鉄の海岸を押さえると同時に、その生産拠点を押さえるのが戦略的に重要だったからでしょう。

広常伝説は上総各地にあり、はたして布施が本当の居城で、造式に別館があったかどうか、確証はありませんが、少なくとも重臣が代官として配置されていたであろうことは推測できます。
貝須賀の鹿島神社の権威はこうした古い伝統が背景にあるからだろうと思っています。

 

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