★「いじむ」から「いすみ」へ(2) 

    
                  宇佐美灊水先生頌徳碑(岬町長者)

夷隅郡はかつて夷灊郡だったと前回紹介しました。
夷灊郡は大宝律令(701年)以来の名称で、1664年、徳川家綱の第4代将軍就任に際し、諸大名に対して従来通りの所領を安堵する朱印状が今も残っています。
“大多喜藩主・阿部播磨守(正能)に対して夷灊郡のうち1万石を領地として認める”とありますから、少なくともこの時代までは夷灊郡という表記が公文書に使われていました。

当時は毛筆ですから、書く方も読む方も困ったでしょうね。
それで夷灊を「伊志見」や「伊志美」と便宜的に表記することが平安時代から行われ、江戸中期にもなると「夷隅」と略記することが一般的になりました。

ただし「夷隅」の表記は江戸時代に突然現れたものではありません。
平城京跡地から“上総国夷隅郡蘆道(イオチ?)郷からアワビを貢納した“という木簡が出土しているそうで、だとすると奈良時代にまでさかのぼりうる表記法です。
つまり夷灊が正式、夷隅が略式の表記だったようです。

江戸中期以後、略式が主となったのは、幕府の行政が文書主義で安定し、文字の読み書きができる庶民も増え、「漢字の大衆化」の時代になったからでしょう。
しかし「夷隅」では伝統に反するとか、品格がないからと使わないという知識人、文化人はもちろんいました。

夷隅川は正しくは夷灊川で、この川を文学的に称して「灊水 シンスイ」と言います。
江戸中期に宇佐美灊水という儒学者がおりました。本名恵、通称恵助、号を灊水というこの学者は地元の岬町長者の出身で、幼い頃から神童とウワサされたそうです。(画像)
号「灊水」はもちろん故郷の川の美称からとったものです。

夷隅郡大多喜町の「牛頭天王社 ゴズテンノウシャ 」が明治になってから「夷灊神社」に名称変更するのは当時の復古主義的な風潮によるものでしょう。
ただし夷灊神社の石碑文字はサンズイではなくコザトヘンになっています。それは格別な意図があったのか、それとも単なる誤記なのか、あるいは異体文字だったのかは今では不明になってしまいました。
 

明治の文豪・森鴎外はいすみ市に別荘を持って執筆活動をしておりました。その日々の様子を『妄想』という作品にしています。
その作品の中で、鴎外は別荘前を流れる川の名を「夷灊川」と記しました。
「夷隅川」という表現を「軽い」と感じたのでしょうか。
ドイツ留学の医学者でありながら和漢の古典に通じた鴎外は「夷灊川」という伝統的な表現を選択したのでした。

しかし多勢に無勢。「夷隅」使用者は増え続け、1000年以上続いた「夷灊」表記を愛する人はいなくなりました。
大多喜の夷灊神社は現在、夷隅神社と表記され、鴎外の『妄想』の文学碑には「夷隅川」と彫られています。
今日、「灊」という二十一画の文字は漢字辞典からも消えてしまいました。
これは歴史の一部がすっぽりとなくなってしまったことと同じです。

                             (来週金曜日につづく)

 

関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント