★いすみ市の高市皇子伝説(2) 

 
  蘇我氏系の岩熊廃寺(旧法興寺)跡地 

いすみ市の旧東小高村に高市皇子の住居伝説があり、旧小高村で高市皇子夫妻の古墳伝説がありました。しかし、それを裏付ける根拠はありません。ところが岩熊の大宮神社には「奈良高市郡出身の小高氏が高市皇子の姫を擁してこの地に来た」という伝承があることを前回紹介しました。
そしてその時期を長屋王の変(729年)直後だと推測しました。
大宮神社の伝承に多少の真実が隠されているとすれば、小高氏と姫は誰を頼ってこの地に来たのかが問題となります。源義経が奥州の藤原氏を頼ったように、上総に彼らを庇護する有力者がいたはずです。

いすみ市岬町岩熊にある「童謡の里」の記念碑の裏手に法興寺(ホッコウジ)があり、薬師様、阿弥陀様、大黒様で親しまれております。法興寺は大同二年(西暦807年)伝教大師により開山された古刹とされていますから平安初期となります。
このお寺には奇妙な伝統があり、新任の住職の着任式は田んぼの中で行われてきました。
その田んぼは「堂跡」と土地の人に呼ばれており、かつて法興寺の伽藍はここにあったのではないかと昭和48(1973)年に発掘調査が行われました。

その結果、田んぼの下から廃墟が発見されました。地名にちなんで「岩熊廃寺」といいます。
創建時の出土瓦の文様は奈良県桜井市山田にあった「山田寺」の系統とわかりました。
また山田寺と同様に金堂・講堂を伽藍の中軸線上に南から北へ一直線に並べておりました。
これらのことから創建はお寺の伝承よりも古く、平城遷都(710年)前後の頃と判定され、上総いすみ地方では一番古いお寺になります。

いすみ市に来て、法興寺の名前を初めて聞いた時には驚きました。法興寺とは蘇我氏が飛鳥に建立した日本最初の本格的な寺院の名前です。588年着工、596年竣工。日本で仏教を興隆するお寺という意味で、それと同じ名前のお寺ですから、ずいぶん大げさな名前だと思ったものです。
しかし上総いすみ最初のお寺なら、この地に仏法を興すぞと気合が入った寺名であるのは当然でした。

そして発掘調査の結果からは、上総法興寺にも蘇我氏の影がうすぼんやりと見えてきました。
というのも奈良の山田寺とは蘇我氏の一族・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が建立したお寺です。(着工641年、竣工686年)
興福寺の宝物殿で「山田寺仏頭」をご覧になった方も多いと思います。最新鋭の立派なお寺だったようです。その建立に携わった技術者・工人たちが上総に来て、山田寺に似た岩熊のお寺建立にも関与したのだと想像するのは素人の特権として楽しいものです。

千葉県には蘇我という土地があり、蘇我比咩(ソガヒメ)神社もあります。蘇我一族は千葉県、とりわけ内房に広大な権力基盤が持っていたようです。印旛郡にある龍角寺は関東最古の寺で、奈良の山田寺との関連から蘇我氏の影響が指摘されています。
その蘇我氏が外房進出の拠点としたのが岩熊法興寺だと考えられます。

しかし蘇我本宗家は大化の改新(645年)で滅びます。傍流の蘇我倉山田石川麻呂が一族のトップに立ち、中大兄(天智)の片腕として右大臣にもなりますが、謀略で自殺に追い込まれます(649年)。
黒幕はおそらく藤原氏。
興福寺の「山田寺仏頭」は戦利品として山田寺から引きずり出されたと伝えられています。興福寺は藤原氏の氏寺です。

小高氏が高市皇子の姫を保護して岩熊に来たとするならば、当時豪壮な寺院であった岩熊の法興寺を頼って来たと考えられます。
小高氏の出身地・奈良の高市郡には現在も「宗我坐宗我都比古神社 そがにますそがつひこじんじゃ」という蘇我氏の先祖を祀った古い神社があり、蘇我氏の影響力が強かった地域です。
小高氏はこの神社の関係者から潜伏先として上総の法興寺を紹介されたのでしょう。

蘇我氏を大旦那としてきた上総法興寺としては、蘇我氏を滅ぼした藤原氏に好意を持つはずがなく、藤原氏に滅ぼされた長屋王の親族をかくまったのも理解できることです。
また都からの逃亡者としてはまったく見知らぬ土地に逃げ込んで捕縛されるよりは、何らかのアテがあっていすみ市の岩熊に来たと考える方が自然です。

大宮神社の伝承は当時存在していたであろう蘇我系の法興寺を前提とすると俄然真実味を帯びてきます。
小高氏が定住したとされる旧小高村・旧東小高村の双方とも主要な街道からは外れた、見るからに隠れ家的なおだやかな地域です。山に囲まれたその土地を斡旋したのも法興寺だったと思います。
小高氏が建立したとされる大宮とこの法興寺はともに岩熊地区にあり、直線で1.5kmの近さですから、両者が無関係であったはずがありません。

さて当時の法興寺は発掘によれば火災により焼失します。文書の記録はありませんが時代風潮として「放火」の可能性も捨てきれません。蘇我系がいまだにのさばっているのは許せないということでしょうか。古い記録はすべて焼失しました。
再建された法興寺は発掘調査によれば、蓮池を持つ「浄土型伽藍」であったそうです。
浄土型伽藍は藤原道長が創建した法成寺(ホウジョウジ)が最古とされていますから、再建法興寺は藤原系であったと言えます。
そしてこの再建法興寺もいつの頃か焼失し、法興寺は隣接のやや高台の現在地に移転します。
やがて蘇我系だ・藤原系だといういがみ合いも遠い過去の話となったのですが、新住職の着任式はかつて外房随一の格式を誇った旧敷地で行われるという習慣だけは残ったのでしょう。

以上、一部の事実に基づき、後は想像の上に想像を積み重ねた話です。
それぞれ独立した伝説を点とし、点と点を結び付けて線にすると思わぬ画像が浮かび上がってきました。
                                     (来週につづく)

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