★いすみ市岬町の戦争遺跡 


  レーダー付帯設備跡 機関銃座跡 連隊跡

太東崎灯台付近は戦争末期に軍事施設があり、一般人立ち入り禁止区域でした。
昭和18年、太東崎の見晴らしの良い場所には米軍機を早期に発見・迎撃するための電波探信儀(レーダー)が大型1機、小型4機が海軍技術研究所によって設置されました。
大型機は当時の日本の最新鋭機で、コンクリの円形地下室で操作する仕組みになっておりました。
レーダーの性能を確かめる付属研究所も建てられ、そのレーダーを防衛するために機関銃座も設けられ、あわせて海軍太東航空基地(飛行場)も建設されました。
この作業のために近辺の住民が毎日600人ほど集められ、すべて人力での突貫工事でした。延べ人員約10万人、6か月で基礎工事は終わり、その後の完成までの工事は軍機により詳細不明。海軍省により軍関係者以外は立ち入り禁止です。

滑走路は現在の江東橋から一宮に向かう国道128号線を拡幅し、直線部分1000mで意外に短い滑走路です。厚木航空隊から約800名が来て工事に当たり、兵舎は太東小を使い、また別途大型兵舎が建設され、和泉・江場土は大勢の将兵・人夫でごった返しました。
格納庫は太東崎台地の横腹をくりぬいた掩体壕(エンタイゴウ)で、現存しており、中は広く、また迷路のようになっているそうです。
格納庫から滑走路までの飛行機が移動する道が開かれ、それを管理する兵舎も畑の中にあり、すべての工事が終わったのは昭和20年5月。8月の終戦までに滑走路に着陸した飛行機は3機だといいます。

陸軍も本気で本土決戦の準備をしていました。
長者小学校には「羅津要塞(ラツヨウサイ)重砲兵聨隊(レンタイ)内地転用本部並第一中隊」の本部が置かれました。小学校の校門を入った並木の右に小さな碑が立っています。
部隊は,和泉と中原の山中を掘り開いて砲台を据え,アメリカ軍の上陸に備えたのです。和泉志茂の陣地は日在海岸を敵の上陸地と想定して「野砲」を,中原吉附の陣地は九十九里浜に向けて「カノン砲」を向けておりました。

米軍は主として大都市を爆撃しておりましたが、いすみ市の海岸に不穏な動きがあることは当然キャッチしておりました。
機銃掃射は頻繁にあり、8月13日には椎木が空襲を受けます。
そして15日、終戦となり人々は呆然としたそうです。

進駐してきた米軍により電探施設は爆破され、野砲は米軍に没収されました。
弾薬はしばらく野積みにされたままでしたが、銚子沖に投棄されたそうです。

やがて断崖は浸食により30 m以上も崩落・後退し,直径7.8 mの円形地下操作室などの基礎部分も海中に没してしまいました。山上の松林にあった兵舎は昭和25 年に灯台施設となりましたが,崖の浸食が進み,昭和47 年に灯台は100 m移動します。
しかしこの初代灯台施設も今や跡形もありません。

現在,電探付属の礎石(左写真)だけが残り,「機関銃座跡」とともに解説板が建てられています。この礎石が崩落するのも時間の問題でしょう。
人々の熱病のような神州不滅・一億玉砕の思いも、血と汗と泥にまみれた軍事施設もすべて海中に没し、あるいは雑木・雑草に埋まってしまいました。
今は何事もなかったように穏やかな田舎の風景が続いています。
参考:『岬町史』

 

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