★万木城悲話(2) 狐(キツネ)火  

 
    南中村交差点から峰谷山、小高方面を望む

豊臣秀吉の小田原・北条攻め(1950年)にともない、房総半島は徳川勢の圧倒的な戦力の下で蹂躙(ジュウリン)されました。
上総土岐氏の居城、いすみ市の万木城も本田平八郎忠勝(後の大多喜藩10万石領主)を筆頭とする徳川勢数万の兵に囲まれ、抵抗むなしく落城しました。

――いつの頃からか焼け落ちた城のふもとの万木村から狐火(キツネビ)が出るというといううわさが広まった。
それがいつも同じ日に出るということで、村人はその日が来ると早々に雨戸を閉めて狐火が通り過ぎるのをまんじりともせずにやり過ごしていた。

そのうちに狐火がいつも同じ道を通ることに村人は気付いた。万木城から出て夷隅川を渡り、峰谷山に向かってぞろぞろと並んで登っていく。
これは何のたたりなのかと村人は話し合ったが、誰かが戦争で死んだ兵士たちの霊なのではないかと言い出した。そうにちがいない、霊が浮かばれないのでは気の毒だ、どうしたら良いだろうかと話し合ったが良い知恵など浮かばない。
そのうち、狐火の通り道にあたる家のおばあさんが、小豆飯を炊いてにぎり飯にし、それを葉蘭の葉で包み、通る道の角々に置いたんだって。翌朝、そのにぎり飯はすべてなくなっていた。
その話を聞いた村人は、「やっぱしなぁ、かわいそうによぉ、腹が減ってたんべ」と話し合い、その日になると村をあげて握り飯を作り、通りの角々に置いた。

やがて狐火は次第に少なくなり、そして腹がくちたのだろうか、村人の供養に満足したのだろうか、狐火はまったく出なくなった。
狐火は峰谷山から小高にある小さな祠(ホコラ)に向かい、その先に向かう火を見たものはいなかったという。その祠で何があったのかを知っている村人は誰もいない――。
                                        (『いすみの民話』より)

万木城攻防戦を記録した文献は今のところありません。城主・土岐頼春が戦死したか、
それとも脱出して生き延びたかさえ定かではありません。
しかし万木城は炎上して落城したのですから、討ち死に覚悟で最後まで徳川勢に激しく抵抗したことは確実です。その際、徳川勢の背後を急に衝く作戦があったことは十分考えられることです。
隠密裏に一部隊が峰谷・小高方面に展開し、山の森陰に潜んで時期をうかがいましたが、その作戦は見破られました。包囲され、報われることなくその兵士たちが全滅したことを村人は薄々知っていたのだと思われます。「その日のそのルート」はその隠密行動を暗示しています。
おそらく土岐氏は領民たちに愛されていたのでしょう。その兵士たちの無念の思いを慰めるべく、生み出された伝説だろうと推測しています。

  

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