★義人・最首杢右衛門(さいしゅ・もくえもん)  

  
  左=坂水寺にある杢右衛門の供養碑 右=首塚

いすみ鉄道・西大原駅から徒歩数分の所に坂水寺があります。「ばんすいじ」と読みます。
近くを流れる新田川がこの近くではちょっとした渓谷のようになり、滑滝になっているのが寺の名前の由来かと思います。
このお寺に義民・最首杢右衛門の供養碑があります。

1750年(寛延3)、嘉谷、押日、深堀、小池、浜の五か村の百姓の代表たちが領主の阿部正甫(まさはる)の江戸屋敷に押しかけました。その「徒党の罪」の首謀者として深堀村の組頭・最首杢右衛門が江戸で斬首、さらし首になったのは暮れも押し詰まった12月23日のことでした。

事件の発端は阿部が駿府在番に出世したため、諸費用がかかるとして五か村に従来の年貢とは別に400両(約4000万円)の提出を求めたことにありました。
一般農民にとって「1両小判」など一生の間に見ることもなかった時代の話です。
前年から引き続く天候不順のため、全国各地で餓死者がでており、大規模な百姓一揆がおきていました。
五か村も不作・飢饉の中ではありましたが、領主の要求に対して「200両は借金してでも用立てするから残り200両はなんとか容赦してくれ」という嘆願書を持って押しかけたのです。
幕府が一揆や強訴の禁止令をだしたばかりなのに、強訴があったという不始末に対して阿部が出した結論が斬首・さらし首でした。

杢右衛門らは強訴の前に地元の代官に対して同様の訴えをしていましたが、代官は残りを用立てできないなら大規模な検地を行うぞと脅迫していました。
従来の課税対象である田んぼの他に家屋敷山林まで課税対象とする、隠し田んぼや畑など容赦はしない、検地前に刈りいれしたら罰金を課すという大々的な増税策を押し付けてきました。
これが実施されたならばもう生きてはいけぬと覚悟を決めた代表たちが江戸へ行き、不在地主である領主様へじきじきの訴えとなったものです。

農民にとっては杢右衛門は「義民」ですが領主にとっては反逆者・罪人です。罪人の家族もみな死罪となります。そうならなかったのはこの事件が幕府の耳にも聞こえたからでしょう。杢右衛門一人の犠牲ですみ、五か村に対するひどい仕打ちは沙汰やみになりました。

しかし墓を建てることは許されません。
それなのに坂水寺には杢右衛門の墓ともいえる五か村共同施主の供養碑があります。これは1957年(昭和32)に某氏の墓の土留め石であったものを洗ってみたら、『俗名 杢右衛門』、表には『勝光院西岳経雲居士 霊位』とあって供養碑とわかったものです。
表だって供養碑は建立できないため、埋めて保存し、しかも一部の人のみが知る処置だったようです。
この戒名の意味は察するに、勝利の光をもたらした人。その人の命は雲となって西方(江戸方面)から立ち上がっているのが房総の山越しに見える。江戸のさらに西は極楽浄土だから雲はそちらに向かって流れていくのであろう――とでもなるのでしょうか。

そして同じ年のことです。こんどは最首家の墓地を改装する際に地中から本人の墓標ともいえる石碑が発見されました。石碑には
   『最首杢右衛門者匹夫/而為百世神/一言而救万民命/
   生命極四十一/剣上投五尺身/臨危不変/方是丈夫心也』 とありました。

現代語訳はわたしの手にあまりますが、
“最首杢右衛門は普通の人間だが/百姓の神となった/たった一言で万民の命を救った/
年齢は四十一であった/剣の上に五尺の身を投げ出し/どんなに危険な目にあっても態
度は変わらず/まさにこれが立派な人間の心というものだ“

さらに翌年1958年(昭和33)の12月23日のことです。深堀村・旧若山村で大規模な耕地整理が実施されていましたが、用水路脇の地中から一個のサレコウベが発見されました。
その日は杢右衛門の208回目の命日でした。
伝説では、地元の僧侶が刑場から杢右衛門のさらし首を奪取して故郷に逃げ帰ったが、取り手に囲まれ、淵に飛び込み自殺したとあります。その際、杢右衛門の首を埋めて隠したのだろうと推定され、現地(東海小学校の北、用水路脇)には「首塚」の碑が建てられました。現在でも丁寧に供養されています。

首塚の位置がわからず、途中で場所を尋ねた人はなんと杢右衛門の子孫にあたる女性で、親切にも自転車に乗って案内してくれました。不思議なご縁というものでしょう。
物静かな語り口ですが、先祖を誇りに思っている様子がうかがえました。

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