★江戸防衛の高速運河

小名木川
  Wikiより転載:小名木川全体の空中写真。西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶ。

2月の中頃に腰を痛め、ベッドにいる時間が増えました。
暇つぶしに寝転んで読んだ本が知人から借りた『日本史の謎は地形で解ける』(竹村公太郎 PHP文庫)があり、目からウロコでおもしろかった。

家康が秀吉の命令で北条氏の旧領を与えるからと江戸に移されたのは1590年のことでした。
江戸に着いた家康家臣団は、そのあまりにも貧しくひどい景色に激高したと言います。
江戸城のすぐ前は海で、西も東も広大な低湿地帯で人が住む場所はありませんでした。
難攻不落・鉄壁の守りの大阪城とは地理的条件は雲泥の差です。

そのころはまだ秀吉は健在だったし、東北の伊達氏は天下をうかがう気配がありました。
豊臣・伊達・南蛮の反徳川勢力が一斉に江戸を攻撃すれば防ぎようがない「死地」でした。
家康は華麗な居城を作るのは後回しにし、江戸防衛の三つの巨大プロジェクトを命じました。

一つ目は江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子方面へと付け替える「利根川東遷工事」です。
これは江戸を洪水から守るとためと言われていますが、竹村氏は本当の目的は江戸防衛の軍事工事だった言います。
南下する伊達軍を坂東太郎(利根川)でくい止めるのが隠れた狙いだったといいます。

外房九十九里浜の中央に東金市があります。
ここを家康は鷹狩と称して二度訪れており、その経路は「御成街道」といいます。
その道路は昼夜兼行で3日でできた、とうわさされる突貫工事でした。

江戸から東金までほぼ直線の御成街道は、家康の鷹狩のためと称していますが、たった二度の鷹狩でもう東金には来なかったのは権力者の気まぐれでしょうか。
低湿地帯を何万という軍勢が通過するのは不可能です。
竹村氏は徳川軍を素早く房総に展開するための軍用道路だったといいます。
武田信玄が建設した棒道(直線道路)と同じだと考えると良いでしょう。

そして画像の小名木川開削工事です。
当時、ここは低湿地帯で、当時の海岸に沿って直線の運河を作ったのは、船橋の塩を江戸に運ぶためと称していますが、大量の軍事物資を船で房総へ運ぶことが真の目的だったと言います。
低湿地帯の水はけを良くし、掘削でできた土砂は埋め立てに使う一石四鳥の計画でした。

家康が江戸に着任して真っ先に行った工事が、利根川東遷、御成街道、小名木川の工事でした。
それは江戸防衛の必要最低限の緊急工事だったともいえるでしょう。
江戸城と城下町が本格的に整備されるのは1615年豊臣氏が滅亡し、世の中が落ち着いてからでした。

以上、竹村氏の説をかいつまんで紹介しました。
家康の江戸防衛の深慮遠謀に感心した次第です。
わたしは民生安定の土木工事だと思っていましたから、裏には軍事目的があったとは驚きです。

竹村氏は触れておりませんが、江戸湾入口にある館山藩(里見氏)が些細なことで山陰へ追い出されて滅亡するのは大坂夏の陣の直前、1614年のことでした。
家康が関東を留守にしたとき、外様の里見氏が謀反するのを事前に防ぐ目的だったのでしょう。

歴史が専門ではなく、土木工学が専門の竹村氏から見た日本史の姿は、どの項目を見ても「そういう見方が成立するのか!」という驚きの連続でした。


 
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