★1月25日は 『八百屋お七の火事』の日

         八百屋お七
    火の見櫓(ヤグラ)のはしごに登り、半鐘を打つお七

先だっての糸魚川大火災は中華料理店から出火し、折からの強風にあおられて飛び火し、甚大な被害となりました。
死者が出なかったのは不幸中の幸いで、糸魚川の消防・警察・行政の連携が良かったのだと思います。

現代社会では失火の刑事罰はたいしたことなく、中華料理屋のご主人は死刑になることはありません。自宅が消失しても、火災保険に加入していなかった人は丸損です。

江戸時代は放火の罪は殺人罪よりも重い罪でした。
1683年1月25日、当時の暦では天和二年師走28日正午ごろに出火し、鎮火は翌日の朝だったそうです。大火の死者は3500人にもなり、俗に「八百屋お七の大火」とも呼ばれています。
翌年、お七は放火犯として大森の鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑となります。

鈴ヶ森の近くに勤めていましたから刑場脇を通ることが何回かありましたが、今では立て札一つが立っているだけで、刑場だった面影はありません。完全に市街地になっています。

しかし天和の大火はお七の放火ではありません。駒込の大円寺から出火とされています。
本郷の八百屋の娘・お七はこの大火で焼け出された被害者で、一家そろってお寺で避難生活を送っていました。
そのお寺の寺小姓と良い仲になりましたが、やがて本郷に八百屋が再建されると、隠れた恋ですから二人は別れねばなりません。
悶々と暮らしたお七は、もう一度火事が起これば恋しい人に会えると思いつめます。
そして放火に至るのですが、それはボヤで消し止められました。
ところが放火した現場を見られたために逮捕されます。

当時も少年法みたいのがあって、15歳未満なら減刑になるので、奉行所は「本当は14歳だろう」と助け船を出したのに、「16歳だ」と言いはったので、放火犯=火あぶりの掟に従った判決になりました。

この「実話」を本ダネにして大阪の井原西鶴が『好色五人女』を執筆して大当たり。
歌舞伎・浄瑠璃で演じられ、舞台ではボヤじゃ面白くないので、お七が火の見櫓の半鐘を鳴らすという場面に変更されています。(画像)
火事でもないのに半鐘を鳴らすのは、これもまた重罪でした。

西鶴のフィクションが独り歩きし、本当は何が真実か現在では不明です。
ともかく天和二年は、江戸の大火として記憶に残りました。
あの大火がきっかけでお七さんが火刑になったのネ――という話からその大火そのものが「お七の大火」と呼ばれるようになり、やがてその火事の放火犯だと誤解されていきます。

火の始末、火の用心は大切ですね。
大勢の命を奪い、財産を奪い、人生を狂わせます。
今の時期は大寒で、今朝は零下の気温、最高気温も10℃にならず、湿度は20%台。
西高東低。風も強く、もっとも火災に注意すべき時期です。

蛇足
1)
ワープロが普及し始めたもう何十年も前の話。
同僚が八百屋オヒチと言いました。江戸=東京の住民はシとヒを区別できません。
オシチだと言っても納得しませんでした。ワープロで入力して初めて負けを認めました。
高校時代の地理の先生は朝日新聞をアサシヒンブンと発音していました。

2)
お七の生まれ年は丙午・ヒノエウマ だった言われています。(今年2017年は丁酉・ヒノトトリ)
ヒノエウマ年の女は気性が荒い、男の命を縮める――などの迷信は八百屋お七の頃からでしょう。
最近では1966年がヒノエウマ で、出生率が激減しました。
次回のヒノエウマ は2026年。その頃はもう、迷信そのものが消失していると信じたいところです。


 
 
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