★戦国時代末期の「椎木城」跡地

椎木城
      般若寺入口の急峻な坂を登り、画像右手の台地

JR外房線・太東駅の東側に国道128号が通り、房総半島の主要な街道になっていますが、戦後になってから細道を直線化、拡幅、新設された道路です。
歴史のある古くからからの街道は太東駅西側の椎木商店街の街道で、伊南街道と呼ばれていました。
現在は県道152号です。
伊南とは夷隅郡南部という意味で、伊北とは夷隅郡大多喜方面を指していました。

戦国時代、伊南万木城(マンギジョウ)に陣取る土岐氏と、伊北に陣取る正木氏は敵対関係にありました。
それどころか、南の大原には槍田氏、北の長南には武田氏も穀倉地帯である万木の地を奪おうと死闘を繰り返していました。

今から思えば、何も殺し合いをしないでも、と思いますが、戦国時代とはそういう時代で、親族が殺されたから復讐だ、という負の連鎖の時代でした。
椎木城は北の武田氏にそなえる砦のような城です。

伊南街道・椎木交差点を北に少し行くと太東郵便局になり、交差点付近がかつての繁華街の中心かと思われます。郵便局をさらに少し北上すると般若寺があります。
周囲を崖に囲まれ台地の上にあり、平安時代から続く天台宗の名刹です。この急坂は自動車でもキツイので、自転車族が体力を競い合う舞台になると聞いたことがあります。

つまり椎木城は伊南街道には接していませんが、伊南街道をすぐ封鎖できる位置にあり、しかも旧矢上村へ続く街道に接しており、また旧古沢村に続く街道との分岐点にあります。
武田氏がどこから侵攻してくるか、どのルートからであっても対応できる場所です。

昔はここが交通の要衝(ヨウショウ)の地だった位置にありました。
東西南北どちらの方角にも出陣できる好位置に砦を築いたのは昔の人の慧眼(ケイガン)です。

般若寺の急坂を登り、本堂の南西の不動堂付近が椎木城の本体があった場所だと考えられています。
防衛に適したこの急峻な高台から周囲を見渡し、いざという時に備えたのでしょう。

わたしの手元に 『千葉県いすみ市を対象とした集落形成の調査』2015 という小冊子があります。
千葉の某大学院建築学の院生が中心になってまとめたようです。
その冊子の地図では、椎木城が伊南街道沿いで、隣町・綱田村との境界付近に図示されていました。

院生がどのような資料に基づいて ここが椎木城跡地としたか 知る由もありませんが、
その位置だと伊南街道はすぐ封鎖できますが、他ルートを侵攻する武田軍には対応できません。
何よりも防衛に適した急峻な丘がありません。

院生が椎木城はどこにあったのか、『岬町史』など基本資料さえ参照していないのは残念なことです。
一度文章になって公表されると、それが独り歩きすることもあります。
文章を発信する人は裏付けをきちんと取る――ブログを書くわたしの自戒です。


 

 
 
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