★戦国時代末期の「和泉要害」城跡地

和泉要害
    スーパーレオ駐車場から見た要害跡地。左手が人工的な急斜面の特徴。

戦国時代末期、現在のいすみ市に相当する地域を治めていたのは土岐氏で、土岐氏と言えば鎌倉時代からの名門で特に美濃国で栄えました。
しかし、美濃土岐氏はマムシの異名を持つ斎藤道山に追われて没落します。

明智光秀の前半生ははっきりしませんが、美濃土岐の一族を自称していました。
その家紋は桔梗紋で、織田信長は本能寺の変では桔梗紋の旗差し物に囲まれて光秀の反乱だと悟ったと言われています。
いすみ土岐氏の家紋もまた桔梗紋でした。
光秀の意図は滅びた土岐氏を再興するところにあったとみてよいでしょう。

いすみ土岐氏の先祖は流れ流れて房総半島に定着し、はじめは安房の里見氏に仕え、やがて頭角を現し、土岐弾正少弼為頼は「里見三羽ガラス」と呼ばれるほどになりました。
しかし、そうであればこそ野心も人一倍あったのでしょう。里見氏と手切れて独立し、里見氏とは敵対関係にあった小田原の北条氏と同盟します。

そうは許さじと里見側の攻撃は厳しくなります。南の御宿から、あるいは西の大多喜から攻撃を開始します。
北側からは、現在の長生郡に威を張っていた武田氏の攻撃も繰り返され、どちらの方向から誰が攻め寄せてくるか気の休まる暇もなかったことでしょう。
  
東側は断崖と遠浅の続く太平洋で、防衛上はやや安心できます。
ドカリの波と地元で呼ばれる荒波の海岸ですから、当時の船では大軍を運ぶのは困難です。
とはいえ土岐氏にとっては油断は大敵ですから、東側の防衛拠点として設置したのが画像の
「和泉要害」です。

いすみ市夷隅の万木城を拠点とする土岐氏を海上から攻めるとなると、上陸推定地は御宿、大原、大東の三カ所が考えられます。
「和泉要害」は現在の太東漁港から続く昔からの一間(180cm)道路が続く先にあります。
この狭い山道を封鎖すれば敵の進軍を阻止し粉砕することができるでしょう。その拠点です。

敵は現在の国道128号を進軍するかもしれませんが、当時この付近は湿地帯で行軍には不向きです。
しかし、その場合にも対応できる立地条件にあります。

画像を見て、あぁやはり房総の城跡だと特徴づける光景が見られます。
山頂部の左側が急に傾斜していますね。
戦国時代、房総の山城には石垣がなく、人工的に山を削って砦としました。
石垣を築き天守を建てたのは信長以後の話。房総にはその流儀は伝わっていなかった。
この急斜面で守られた難攻不落の砦が「和泉要害」でした。

いまではここが城跡(砦跡)だと知っている人は地元でもほとんどいなくなりました。
延寿寺というお寺がそこにあります。
なんとなく触れがたい特別な場所だという意識から放置され、やがて神社やお寺の敷地になるんでしょうね。

和泉要害で、どれほどの戦闘があったのか、記録は全く残っておりません。
1590年の小田原北条氏滅亡とともに、この和泉要害の歴史も終わりました。








 
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