★〽三階松は上総山(カズサヤマ)、上総山

三階松
     日在(ヒアリ)大堰の土手に『三階松の碑』があります。

カインズホームの裏手(山側)には昔の伊南街道が通り、現在は国道128号の裏街道として、かなりの交通量があります。
その街道に沿って農業用のため池・日在大堰があり、四阿(アズマヤ)もあるのは桜の名所にしようという考えかもしれませんが、四阿があること自体知る人は少ないでしょう。

そこに画像の『三階松の碑』があり、手まり唄として 「二葉の松は色ようて 色ようて 三階松は上総山 上総山」 と彫られています。
三階松の碑って何?、なぜここに建っているのかがそもそも疑問ですが、手まり唄がなぜ刻まれているのかも疑問です。

大堰から伊南街道を200mほど南下すると、介護老人保健施設エスポワール大原への分岐になり、そこに『日在城跡』の石碑が建っているのに気づきます。
このそそり立つ小山がかつての日在城で、戦国時代末期、周辺を治めた土岐氏の万木(マンギ)城の支城として伊南街道ににらみを利かせていたのでした。
その石碑に小文字で、「二葉の松はこの山の中腹にあった」と刻まれています。

上総山
  上総山と呼ばれた日在城跡遠景。ふもとに伊南街道が走る

この二つの石碑と碑文を組み合わせると次のような推量がなりたちます。
  1.日在城跡中腹に、色よく、形の良い立派な二葉の松が生えていた。
  2.黒松か、赤松かは不明だが、色よくと形容されたのだから赤松だったと思われる。
  3.二葉の松とは一般的な松だが、夫婦一対の象徴、夫婦の固い契りの象徴だった。
  4.旅人の目印となる巨大な松があり、その姿の良さは三階松として近在で著名だった。
  5.その二葉の松、三階松を眺める絶好のビューポイントが日在大堰付近であった。

  三階松b 三階松の家紋。こんな松が生えていたのだろうか。

この松は近在で有名だったのみならず、江戸末期から明治にかけて手まり唄の一節として全国的に知れ渡ったようで、地元の自慢の松だったようです。
   一つとや 一夜(ヒトヨ)明ければ  にぎやかで にぎやかで
  お飾り立てたる 松飾り 松飾り

  二つとや 二葉(フタバ)の松は 色ようて 色ようて
  三蓋松(サンガイマツ)は 上総山 上総山

  三つとや 皆様子供衆(シュ)は 楽遊(ラクアソ)び 楽遊び
   穴一(アナイチ)こまどり 羽根をつく 羽根をつく
                                  以下略

黒田清輝という明治の著名な洋画家がいます。『読書』や『舞子』など見たことがあることでしょう。
その黒田清輝が『房総旅行記』を書いています。

その一節、1896(明治29)年12月28日の日記
  一の宮に十二時前に着いて(中略) 此処で乗合馬車を一台二円で借切りにして二時に大原を指して出かけた 四時半頃に大原についたがいやはや此の間の道の悪さ加減は非常なもんだつた 竹屋と云宿屋に荷物を置き馬車の別当の案内で小浜の八幡へ行た 小浜と云処は一寸画になりそうな処だからしばらく大原に居る事にきめ宿屋に帰り風呂に入りめしを食ひ手紙をかき狂歌をやらかし花がるたを取りなどして十二時前にねる 今日馬車で上総山とか云処の前を通つた時馬丁があの松が名高い三階松です 又あれが二葉の松ですと云て見せた 三階松と云のは此間の風で折れたと云て真中から折れて上の方は土手の下にぶら下つて水につかつて居た  一部現代仮名遣いに訂正

読みにくい文章ですが、この日記によれば上総山の二葉の松と三階の松は別物で、どちらも当時、大原自慢の松だったことがわかります。
また三階の松が暴風で折れたのが1896年のことで、上総山とは日在城があった山だと確認できます。

しかしそれから120年たち、二葉の松も三階の松も実際に見た人はいなくなり、それは寂しい、地域の歴史を残そうとして当時の大原町教委が石碑を建てたのですが、石碑だけでは意味不明。
あちこち調べてようやく、石碑の意味が分かりました。


 
 
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