★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(4)

   蟹道
   終戦(1945年)当時の長生村海岸付近の地図。
赤〇:字(アザ)蟹道地区、青〇:村立一松小学校 ★は九十九里有料長生IC
当時、九十九里有料道路はもちろん、国道30号も整備されていませんでした。
海岸沿いの曲がりくねった南北の街道が当時の国道で、現30号の直近の西側の道です。


千葉県唯一の村である長生村は一宮町の北隣りにあります。
長生村の立派な文化会館図書室に 『長生村風土記』(昭和63.09.01) があります。
そこには 『風船爆弾の話』 が掲載されていました。

風船爆弾とは戦争末期、水素ガスをつめた巨大な紙風船(気球)に爆弾をセットし、偏西風に乗せて米国本土を空襲するという奇想天外な作戦で、その発射基地が一宮海岸などにありました。

長生村風土記によれば―――そのころ、三本松(蟹道海岸)に怪しげなものが突然建てられ土地の人々は誰いうとはなしに三角兵舎と呼んで不思議にしていた。
その三角兵舎は、現在の佐久間果物店の裏(西側)で三角形の屋根の兵舎と炊事場があり、その周辺約1町歩1ヘクタール)位が立ち入り禁止で、その辺を「風船爆弾基地」と呼んでいたという。――とあります。

三角兵舎があったという蟹道海岸の海岸には 「なや」 とルビが降ってあります。
当時、各部落ごとに漁民の海岸占有場所は固定され、納屋などが置かれていたのでしょう、〇〇海岸を〇〇納屋と表示することが江戸時代からの慣例でした。

この文章からは 三角兵舎が海岸にあったことが推定できます。画像地図には人家など見当たりませんから、秘密基地に適した場所です。

ところが同文書は、続けて「現在の佐久間果物店の裏(西側)」だとも記しています。
昭和63年当時の佐久間果物店がどこにあったか今では不明ですが、人家のない場所に商店があるはずがない。
旧国道沿いの西にあったとすると海岸からは離れ、雑木林地帯にあったことになります。
結局、この文書からは三角兵舎の場所は特定できません。

100✕100mぐらいが立ち入り禁止で、地元では 「風船爆弾基地」 と呼んでいたらしい。
風船爆弾の本物の打ち上げ基地は一宮町の海岸にあり、広大な面積を占有していました。
では、この施設は何だったのでしょうか?

おそらく飛ばした風船爆弾の現在位置、飛行航路を追跡する施設だったのでしょう。
気球にはラジオゾンデ(高層気象観測用無線発信器)があり、数十時間、数千キロの距離でも受信可能だったそうです。
特殊な無線を傍受するための 「標定所」 が、青森県の古間木、宮城県の岩沼、千葉県一宮に設置されました。

3 か所で受信すればほぼ正確に気球の現在位置が割り出せます。
『謀略戦 陸軍登戸研究所』(学研M文庫、斎藤充功著) によれば、その方向探知機は地下の電磁遮蔽しゃへい室内に設置したとあります。

一方、長生村風土記には、「地面を掘り下げて、四角い大きな箱を埋め、その上に三角屋根を乗せた」 とありますから、気球からの電波を24時間観測する部隊が駐留する 「標定所」 だったとみて間違いないでしょう。

長生村文化会館を訪れた帰り道、ついでに海岸地帯を見に行きました。
驚きました。
海岸地帯の広大な敷地が「幸福の科学」に買い占められていました。

そういえば「幸福の科学大学」が文科省の認可を得られなかったというニュースがありましたが、その不認可大学のキャンパスと関連施設がここだったんですねぇ。

3.11大震災の際、九十九里浜沿岸で長生村だけが被害がなかったのはご本尊様のお蔭だという立派な看板が立っていました。
巨大津波が長生村沖合で左右に割れ、長生村が助かったのはモーゼの出エジプトで紅海が割れたのと同じ現象だとの説明です。

その広大な敷地の一角にやや小高い場所がありました。
この地域特有の海岸砂丘の一部なのでしょう。海外からの電波を受信するのは適切な場所のように思えました。
標定所が蟹道海岸(ナヤ)にあったとすれば、ふさわしい場所です。

詳細な地元地図を持参しなかったので、的外れな推測かもしれません。
一宮町には電波受信の標定所があったとの記録がありませんから、長生村風土記の記述は貴重です。
この海岸近くに 風船爆弾関連施設があったことは、間違いないことだと思います。

   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(1)
   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(2)
   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(3)



 
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コメント

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こんにちは
佐久間青果店の場所は旧県道30号沿い、驚の交差点付近にあります。
昔はなにもない場所でしたので観測に丁度良い場所だったのかもしれません!
今でも基礎が埋まっているのでしょうか?