★花見?いや 枯野見です

葦原
    夷隅川、河口の湿地帯では葦原、荻原が広がる

もう旧聞に属することですが、京都・苔寺に訪れる外国人にバスの中でガイドさんが、
――これから行く西芳寺の庭園は花が一輪もない名園で、別名が苔寺。特に雨の日に訪れるのが素晴らしい――
こう説明すると、みな冗談だと思ってゲラゲラ笑うのだそうです。

百花繚乱、花いっぱいの庭園がすばらしいという固定概念があるようです。
苔むした庭など、みすぼらしいと思うのでしょうね

房総半島の紅葉は遅く、今年はちょうど今頃(12/11)がさかりのようですが
今日の季節外れの大嵐でみな散っちゃったかもしれません。

日本人は春は桜、秋は紅葉を見るために出かけるのが好きです。
全山、真っ赤に染まる秋の景色は絢爛豪華ですばらしいものがあります。

その一方で、何もない景色にひかれるという感性も脈々とあります。

        見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ     藤原定家

苫屋とはスゲや茅で屋根をふいた漁民の作業小屋のことですから、ボロ屋です。
何もない海辺のモノトーンの世界の中にも 人間の営みを感じさせる苫屋がひっそりと建っている景色に定家は深く感じ入ってしまいました。

        旅に病んで夢は枯野をかけめぐる    芭蕉

芭蕉の病中の句で、芭蕉はまだまだ旅を続けたいようです。元禄七年旧暦十月八日の句。
寒々とした枯野というよりも、風がなく日があたる広々とした野原ならば枯草だってあたたかい。
早く元気になって新しい発見の旅に出かけたいという句でしょうね。

辞世の句と考えると、死を悟り、身は魂魄となっても旅を続けるぞ という壮絶な句になってしまうのですが、それは考えすぎのような気がします。

さて、いすみ市出身の歌人、矢代東村の歌

        潮風に ひがな一日吹かれてる こゝの岬の枯草のいろ

東村は大原東村の出身ですから こゝの岬とは太東埼ではなく、大原八幡岬のことでしょう。
大原漁港が立派な漁港に整備されたのは戦後のことですから、当時、塩田川河口付近は広大な葦原、あるいは荻原であったと想像できます。

東京での生活に疲れた東村は、久しぶりに帰省し、何もない景色を眺めながら やはり故郷が一番良いと心温めているのでしょう。

何もないところからすべてが始まる――何もないことは単なる荒地ではありません。
ここにはあらゆる可能性が秘められています。
ゼロからまた始めればいいじゃないか
――実際、春になればこの枯野だって また瑞々しい青葉が萌え出てくるに違いありません。


 
 
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