★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(3)

一宮砲台記念碑、風船爆弾記念碑
  一宮海岸、風船爆弾発射基地跡記念碑(左)と幕末一宮藩砲台跡地記念碑(右)
  場所は県道30号沿いの焼肉花月苑の1本西隣の道路沿い。「波乗長屋」裏。


1944(昭和19)年ごろ、千葉県の一宮駅から海岸まで軍事用鉄道の引込み線がひかれていました。
一宮から東浪見(トラミ)にいたる海岸は立ち入り禁止となり、海岸には兵舎 が建設され、陸軍気球部隊と陸軍兵器廠が設置されていました。

風船爆弾は太平洋戦争の末期、米本土攻撃をするための秘密兵器だったので軍の重大機密です。
海岸に何があり、何が行われているのか、地元住民は何も知らされず、海岸線を走る汽車は、海側の窓の鎧戸(よろいど)が常に降ろされていました。

風船爆弾は偏西風がちょうどよく流れている時期の早朝、あるいは夕暮れに放たれました。
直径10mもある気球ですから、いくら秘密にしていても空に放たれた気球を目撃した住民は何人もいたようです。

記念碑には風船爆弾発射基地跡地とありますが、正しくは「発射」ではなく「放球」。
気球はコウゾを原料とした和紙で出来ていましたから紙風船。
この紙風船用和紙を作るために全国の和紙の産地は全力動員されました。
和紙を張り合わせるために各地で多くの女学生が勤労動員されたと伝えられています。

風船に水素ガスを詰め、15kg炸裂爆弾、5kg焼夷弾を2個を装着。
高度調整装置を取り付け、高度8000m~10000mまで上げ,冬の偏西風にのせて米国本土まで飛ばせて落下するように仕掛けてありました。

紙風船本体、付属物、爆弾、高度調整装置、水素ボンベなど厳重に梱包され、この引込線を使って海岸の基地まで運び込まれました。

放球台は直径10mの円型コンクリート床を作り、周囲に気球を留める19本の綱をつなぎとめる19個の鉄の懸吊環(けんちょかん)がありました。
一宮には今は何もありませんが、北茨城市五浦にある風船爆弾の放球地跡には円形コンクリ床が現存していました。
一宮も同様の施設設備があったことでしょう。
大津放球台
(画像元→●

このような放球台が一宮にいくつあったのでしょうか?
一宮に配置された部隊の規模から12台だったと考えられますが、地元の証言は少し違います。

風船基地7
この画像は一宮町の隣町・睦沢町の歴史資料館で今年(2015)開かれた戦争資料展に展示されていた資料です。
赤丸で示された放球台は一列に並び、その数は7か所しかありません。
この資料は地元の人の証言をもとにして作成されたようです。

この資料の信ぴょう性を確かめるために昭和20年当時の地図を調べましたが記載はありません。
それではということで、国土地理院の 『地図・空中写真閲覧サービス』 で昭和27(1952)年、米軍が撮影した航空写真を調べてみました。
(検索方法、空中写真 整理番号USA コース番号M209 写真番号41)

放球台写真

画像中央、南北に連なっているのは海岸砂丘の黒い松林。海岸砂丘にそった東側平地部に、丸や半円の人工的構造物が見受けられます。
これが放球台だと思われます。
その一部を拡大してみると、円周上にボチボチ模様が見えます。
     放球台3

放球台はのっぺらぼうなコンクリ円盤ではなく、円周上に何やらがっしりした構造物があったことが分かります。
これが懸吊環なのかどうか、判断する材料が手元にありません。

睦沢資料の放球台は7か所ですが、写真では10~12か所見受けられます。
睦沢資料の放球台は等間隔で直列していますが、写真ではややばらばらに配置されています。
現場の微高地形を考えれば、等間隔であるより不ぞろいである方が納得できます。
画像は戦後7年が過ぎ、放球台付近は放置されて雑木で覆われ、荒れていたことが分かります。

その後、放球台があったこの海浜地帯には県道30号が通り、海側の防風林地区を除いて宅地整理されて分譲され、現在ではしゃれた民家が並んでいます。
睦沢町の歴史資料館では放球台のコンクリ破片が保存されています。
昔を偲ぶものはこの破片のみとなってしまいました。


 
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