★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(2)

   射撃場2
   まだ引き込み線がない昭和9年の陸軍作成の地図
   一宮・東浪見海岸は陸軍の実弾射撃場だった
   円形ハッチング部分が着弾危険区域


米国が原子爆弾を開発している時、日本軍は巨大な紙風船を作り、その風船に爆弾をくくりつけて米国本土を攻撃するという奇想天外な作戦を計画していました。

その風船爆弾の発射基地が一宮にありました。
作戦は実行に移され、昭和19年11月から翌年の春まで9300発が放たれたそうです。
基地跡は今では住宅地と化し、その面影はありませんが、微高地に記念碑がたっています。

九十九里浜の最南端に位置する一宮・東浪見(トラミ)海岸は当時、それこそ何もない海岸で、広い砂浜に荒い波が押し寄せ、背後は小高い海岸砂丘が連なり、そこは松林となっておりました。

今はサーファーのメッカとも言われ、多くのサーファーでにぎわう平和な海岸ですが、当時もそうだったわけではありません。
この海岸は大正末期から陸軍の実弾射撃場として利用されてきました。
もっとも陸軍専用ではなく、射撃がない時は地元の漁師も利用していた海岸です。

昭和9年に、海岸沖の洋上で大原の漁師が二日連続して流れ弾に当たる事件が起きました。
その顛末の報告書が国立公文書館アジア歴史資料センターに残されています。
防衛省防衛研究所蔵書の中の『陸軍省-大日記乙輯』の、昭和9年9月25日付け文書で
一宮演習場に於て実弾射撃演習中漁夫受傷に関する件』です。

上記画像はその文書に添付されていたものです。
その文書の中に憲兵隊の報告書もあり、当時の一宮・東浪見海岸の様子が記述されています。
以下、その記述を現代文風に少しアレンジして引用します。

――射撃場所 千葉県長生郡一宮町海岸
15,6年前より歩兵学校実弾射撃実施以来、陸軍部隊学校の演習は逐年増加し、現在においては野戦重砲兵学校・騎兵学校・下志津飛行学校・飛行第五連隊・戦車第二連隊・騎兵第十五連隊・陸軍造兵廠等あり。これらの部隊・学校は射撃前一週間ないし五、六日前、関係町村当局に実施に関し一般漁民に示達すべき通牒を発し、一か月平均十日ないし十五,六日間、各種射撃を実施しつつあり―――

同報告書によれば、生活に困窮した漁民が好漁場である同海岸沖に出漁することがままあり、今後は関係町村、漁業組合に演習日時を徹底するとともに赤旗を立てて演習中であることを示し、見張りもたてるなどの対策をとるとしています。

風船爆弾基地建設の約10年前の事件ですが、その当時から事実上、民間人立ち入り禁止の海岸であり、陸軍各部隊がそれぞれのスケジュールに沿って実弾演習をする海岸だったことが分かります。

対米風船爆弾基地をどこに建設するか?
風船はジェット気流の偏西風にのせるのですから太平洋岸であるのは当然として
陸軍に縁が深く、土地勘があり勝手知ったる一宮の海岸が選ばれることになります。

さらに、一宮が基地に選ばれた理由が二つあるとわたしは推測しています。
一つは幕末の頃、ここは開明的な幕臣加納氏が治める一宮藩でした。
諸外国に対抗するためには海防が必須と考え、1854年の江戸のお台場建設に先立ち、1844年に独自に砲台を設置しました。

その砲台が設置されたのがこの海岸であり、当時はまだその大砲が残っていました。
尊王攘夷の記念碑的な砲台跡地に対米戦勝利の風船爆弾基地が建設されたのでしょう。

二つめの理由は、この海岸を見渡すことができる高さ7m前後の微高地、それはこの地域特有の海岸砂丘なのですが、そこに陸軍の上原元帥の別荘があったことです。

上原勇作(うえはら ゆうさく、安政3年(1856)-昭和8年(1933)は陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任して 元帥という陸軍の超大物です。

想像をたくましくすれば、別荘滞在中の元帥が実弾射撃演習中の若い将兵の姿を目にしてあれこれアドバイスしたことはあり得ることです。
風船爆弾実施の責任者が、「上原元帥、我らを見守りたまえ」 という願いを込めたとしてもおかしくはありません。

元帥別荘の北隣の敷地、そこは江戸末期の 「南陣所」 という尊王攘夷ゆかりの字(アザ)地名の場所ですが、そこに風船爆弾の兵舎や兵器廠が建てられたと言います。

   字・邸地
          歴史を刻む旧「字」地名 
                                                     つづく

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