★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(1)

一宮トロッコ
    昭和20年当時の地図には引き込み線が明示されている
    海岸に沿った県道30号ほか2本の道路は当時まだ砂浜だった


上総一ノ宮駅1番線ホームから大原方面を眺めると、(踏切から見ても同じですが)、線路が左カーブに分岐していることが分かります。

分岐したレールはそこまでしか現在は残っていません。
終戦まで駅から伸びた引き込み線はぐるりと半弧を描き、現在の町役場あたりからまっすぐ東(海岸方面)へ進み、防風林に突き当たって250mほど南下したら終点でした。(上記地図画像参照)


東京の京浜急行電鉄の蒲田駅から海岸へ分岐する路線があります。川崎からも海岸方面へ分岐する路線があります。
それぞれ穴守稲荷、川崎大師への参詣客を運ぶ路線でした。
現在は羽田空港、川崎工場地帯への路線として活用されています。

では上総一ノ宮から海岸への分岐は海水浴客を運ぶためのものでしょうか。
いえ、違います。
海岸に建設された風船爆弾発射基地への風船や水素ボンベ、爆弾などの軍需物資を運ぶためのものでした。

風船爆弾とは巨大な風船を作り、上空のジェット気流に乗せて米国本土を攻撃した作戦で
第1大隊が茨城県の五浦海岸、第2大隊は千葉県一宮、そして第3大隊が福島県勿来に配備されました。

1大隊は2~3個中隊で構成され、1個中隊に2個小隊があり、1個小隊は3個発射分隊がありました。
各発射分隊はそれぞれ1つの発射台を担当 (Wikipedia) していましたから、2個中隊が配置された一宮には発射台が合計 12基あったことになります。

配置された軍人は一宮の場合、将校が26名前後、下士官46名前後、兵が約380名前後ですから、合計450余名が新しくできたこの基地に所属していました。
相当な人数になります。

これだけの人数が駐屯し続けるのですから、地元の負担も大きかったことでしょう。
一宮町のみならず、周辺の各町村も分担しました。

岬町のUさんは、古沢小学校には風船爆弾の兵隊さんが入り、夜になると将校さんが風呂をもらいに来たと言います。
昔はもち米の保存食としてアラレを作って干していたが、一夜にしてアラレが無くなったことがあった。腹をへらした兵隊が盗んだんだろうとも言います。

古沢小学校から一宮海岸までは直線で約7km。歩いて通うにはだいぶ距離がありますが、この証言から、かなり広範囲に駐屯したことがわかります。

おなじく岬町のSさんの証言によれば、学校が兵隊さんに取られてしまったので、わたしら子どもたちは近くのお寺で授業した、のだそうです。

軍としてはいつまでも学校を占拠していると地元の反発が怖いので、宿舎を新たに建設したようですが、どこにどれくらいの規模の兵舎ができたか、詳細は不明です。

現在、一宮駅から町役場を通り、海岸まで続くまっすぐな道は戦争末期の軍用道路であり、かつて存在した線路を撤去して併せ、往復2車線の道路としてきれいに整備したものです。




 
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