★三門駅前に軍需工場があった時代

三門駅2
      砂鉄工場敷地、関連図

JR外房線三門駅は乗客数が少なく、職員さえ常駐しない駅ですが、70年前は駅前に大きな砂鉄精錬の軍需工場があり、大いににぎわった時代がありました。

1930年代、日本が中国大陸に軍を進めている時、それを憂慮した国際社会から厳しい批判を受けますが、日本の出した答は国際連盟の脱退でした。

反省しない日本に対する次の一手がABCD包囲網。
A=アメリカ、B=ブリテン=イギリス、C=チャイナ=中華民国 D=ダッチ=オランダなど、国際社会がそろって日本に対する経済制裁を実施します。
そのため鉄鉱石や石油、ボーキサイトなどが日本に入らなくなります。

現代では、核開発疑惑のイランに対する経済制裁、北朝鮮に対する経済封鎖、ウクライナ紛争にからみロシアはずしなどに日本も包囲網に参加しています。

育鵬社の中学生用社会科教科書では、先の戦争について、ABCD包囲網に対する独立自衛のための戦争だった、つまり侵略戦争ではなかったと生徒に仕込みたいようです。

祖父・岸信介氏を尊敬する安倍晋三氏は「断じて侵略戦争ではない」という祖父の言葉を信じ、ポツダム宣言など読む必要もないと思っていたことがポロリと国会答弁で出てしまいました。
その決定的答弁をNHKは報道しませんでした。さすがNHK。

さて、鉄がなければ兵器は作れませんから、家庭の鍋釜やお寺の鐘まで国家に差し出しました。
原油がなければ戦闘機もバスも動きません。
神州不滅を信じた日本の子どもたちは松脂を集めまわったものです。原油代わりにと。

いすみ市の海岸は日本武尊の頃から有名な砂鉄の産地です。
その砂鉄を軍部が利用しないはずがありません。
住民は朝から晩まで砂鉄収拾に動員されました。

現在の大原海水浴場から一の宮町の東浪見海岸までいたるところで海岸が掘られて砂鉄が集められました。
東亜特殊製鋼株式会社、海軍の管理工場。
地元住民が採鉱夫や工場建設、製鋼に携わりました。大原高女の女学生や国民学校高等科の児童まで動員されました。

地元のYさんは 「夫が招集され、子どもを抱え食べるために就職した。朝4時ころから夜の11時ごろまで働いたこともある。粗末な服で冬には股にもヒビができ、日給は55銭だった」と言います。(大原町史)
海岸での真夏の作業や厳寒時の作業は過酷な労働でしたが、神風が吹くことを信じていました。

当時小学生だったSさんは同級生に朝鮮人の子がいたことを覚えています。真冬でも裸足で通学している貧しさで、父親は三門工場の建設に携わっていたようだといいます。

海岸には砂鉄と砂を分離する乾式、湿式の選鉱小屋が建ち、砂鉄を50~100kg入る箱に入れ、集積場まで天秤棒で運び、そこからトロッコに載せて工場まで運びました。

そのトロッコ軌道跡は岬町と大原町の境界線に現在でも残っています。
はじめは人力でトロッコを押していましたが、後に小型の薪式蒸気機関車となります。

工場では、製団、焼結、焼成の過程をへた砂鉄は豆炭状の粗鋼となり、京浜工業地帯や内房の製鉄所へ貨車で運ばれました。

最盛期には従業員700人の大工場ですが、田舎の工場ですから米軍による重点的な爆撃指定地にはなりませんでした。
それでも全国の大都市が焦土となれば、次はいすみ市のような田舎も爆撃対象になります。
橋や鉄道などのインフラは重点的に攻撃され続けましたし、米軍戦闘機による機銃掃射や余った爆弾の投下などで大変な被害を受けます。
8月10日の空襲では三門の砂鉄工場、長者駅が標的になり炎上しました。
13日には深堀、14日は大原漁港、大原駅。
そして終戦の日15日にも三門や大多喜に空襲がありました。

米軍は軍事施設や軍需工場だけではなく、市民を痛めつけ、市民を殺し、市民の戦意喪失をねらっていましたから、市民の被害は拡大する一方でした。
わたしが生まれる前、今から70年前の話です。

それから70年、諸外国と一発の砲火を交えることなく過ぎました。
明治維新以来、平和が70年続いたのは初めてです。
あと30年続けば、合計100年間の平和。人類史上稀有の出来事です。
戦争を放棄した国の国民として これからも誇り高く生きていきたいものです。


 
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