★大原漁港の人間魚雷“回天”基地跡(番外)

空気抗 井戸
    漁港通信局敷地にある地下壕の空気口     井戸跡

入口 塀
    八幡神社脇敷地にある地下壕入口     丹が浦近くのレンガ塀

1945年の千葉空襲は6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回ありました。
千葉市には軍需工場や陸海軍の基地があったため攻撃目標となり、
この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となり、死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだそうです。(『千葉戦災復興誌』)

米軍の攻撃目標は北海道から九州まで二百数十の都市がリストアップされており、絨毯(ジュウタン)爆撃と称されるように、特定の攻撃目標のみならず、市街地をその住民もろ共に全滅させる作戦攻撃でした。千葉市もそのリストに載っていたのでしょう。

いすみ市は当時は夷隅郡。組織的壊滅的な空襲はありませんでしたが、攻撃から帰る米軍が残った爆弾を落としていくことはありました。護衛の戦闘機が住民を標的に機銃掃射することもありました。人々は防空壕の中で米軍機が去るのを身を縮めてやり過ごすしかできません。

すでに3月10日の大空襲で東京の下町が焼け野原になった情報はこちらにも伝わっており、今度は千葉市がやられたとなると、本土決戦、1億玉砕の方針はいすみ市でも現実味を帯びてきました。

若者たちが、座して死を待つよりは一身を投げ打ってでも敵に一泡吹かせたい、と考えたのは理解できます。戦争反対、という選択肢は当時の日本国民にはありませんでした。
そんな悲壮な覚悟に国民を引きずり込んだのは国家の指導者の責任でしょう。

憲法違反の疑いが濃厚な安保関連法案が国会で審議されています。
思えば2年前、麻生副首相が、ヒットラーは当時もっとも民主的なドイツのワイマール憲法下で政権をとったと発言して物議をかもしました。
憲法改正なしに軍事独裁国家ができることを示唆したように受け取られ、麻生氏は発言を取り消しました。
しかし、麻生氏の言うように現憲法を改正せずに、戦争ができる国家に実質的に変質させようとする戦略が2年前から練られており、その確実な第一歩が今国会だと思えてなりません。

今から70年前、父母や家族を守り、天皇を守り、国家を守るためにはもはや自爆攻撃しかないと思定めた若い軍人が大原の地下壕で、その時を待っていました。

8月になり、人間魚雷“回天”は山口県から大原に回航する途中で米軍の敷設した機雷に接触して海に沈みました。
その運搬船の乗員も無事ではなかったことでしょう。
後方支援だの輸送船だのと言っても戦争の犠牲になることは自明のことです。

ともあれ、乗務する人間魚雷が来なくなってしまいました。
やがて8月15日に終戦となり、すべては廃墟となりました。
今はほとんで何も残ってはいませんが、画像のようにわずかばかりの残骸を認めることができます。


 
 
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