★ 播州小旅行(3)姫路城

姫路城
     小天守閣の屋根と比べると大天守閣の屋根は真っ白け。     

世界遺産“姫路城”はその優雅な姿から“白鷺城”と呼ばれていましたが、今回の平成大修理の後は天守閣のあまりの白さに地元もびっくり。
あれじゃぁ“白過ぎ城”だとささやかれています。
それをひと目、現場で見たいものだと思って播州に行きました。

漆喰の壁がまっ白なのは当たり前としても、屋根瓦さえ白さが目立ちます。
隣接する小天守と比べれば、屋根の白さは一目瞭然。
それが“白過ぎ”の印象の源であり、“屋根漆喰”、あるいは“屋根目地漆喰”と呼ばれる特殊な工法によるものです。

関東地方でも、屋根瓦の一部を漆喰で留めるお金持ちの家はありますが、屋根全体を漆喰で留める発想はありません。
屋根全体の瓦を漆喰で留める風習は、毎年必ず台風に見舞われる琉球の伝統家屋以外にわたしは見聞きしたことはありません。

今日の姫路城大天守閣を築いたのは池田輝政。
大坂夏の陣=豊臣氏滅亡の後、徳川政権の西国守備のかなめとして池田輝政が姫路城主になった時です。
輝政は難攻不落の姫路城を築くのですから、最後の砦=天守閣もちょっとやそっとでは炎上しない構造にしたかったのでしょうね。
いわば土蔵造りのような天守閣にしろ!! とオーダーしたのでしょう。
それがオール漆喰で仕上げた白過ぎ城と言われるような白鷺城でした。
それが天守閣創建時の姿でしょうから、文句言っちゃぁいけません。

姫路城は千葉県いすみ市とも縁があるお城なのです。
池田氏の後、藩主となった本多忠政が新たに西の丸を築き、姫路城はほぼ今日の姿になりました。

忠政は夷隅郡大多喜10万石の初代藩主本多忠勝の息子です。
忠勝は徳川四天王の一人。
家康の関東移封の後、房総半島全体を安定的に支配する要として大多喜藩城主になりました。
歴戦において不敗の将として知られた忠勝はいすみ市や大多喜町の名領主として、今日でも慕われています。
武勇の家柄ゆえに、大多喜から桑名へ、桑名から姫路へと 「転勤」 して周囲に睨みを効かせました。

その本多氏が築いた姫路城西の丸には「千姫化粧櫓」があります。
この化粧櫓は、徳川秀忠とお江の長女として生まれた千姫のためにつくられたものです。
千姫は一度は豊臣秀頼に嫁ぐのですが、大阪夏の陣で秀頼と死別したあとは、忠政の長子・忠刻(タダトキ)と再婚し,
姫路城で約10年間、忠刻が病死するまで過ごしました

千姫と言うと、夜な夜な江戸城から手招きして男を引き入れたとか、不謹慎な話がありますが、それはフィクション。
実際には激動・薄幸の人生を送ったわけで、傷心の千姫に忠政・忠刻父子は、徳川氏の手前もあって、最大限の厚遇をしたことでしょう。

いすみ市に移住しなければ、姫路も日本各地にある名所の単なる一つです。
いすみと縁のある地域だと思うと何度か来た姫路ですが新たな思いが湧いてきます。
世界に誇る姫路城は、実はいすみ市や大多喜町も少しは関係があるのです。


 
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