★今日は何の日、400年前、豊臣氏滅亡の日 

    市民
         荷物を奪われる女性  (『大坂夏の陣図屏風』、部分)

1615(慶長20)年5月7日深夜に大坂城炎上、翌8日に淀君・秀頼自害で大坂夏の陣は終結。
応仁の乱以来、およそ150年続いた戦国時代が終わった日から、今日で400年になります。

大坂夏の陣の様子を描いた屏風が大阪城博物館にあります。(大坂夏の陣図屏風)
右側に徳川方と豊臣方の武将の戦いが描かれ、左半分には雑兵たちの戦さの様子。
大坂落城後、雑兵たちは市民に対する一方的な乱暴狼藉、略奪、放火殺人を行い、そのリアルな描写から、戦争の悲惨さを描いた “日本のゲルニカ”  だと言う人もいます。

描かせたのは黒田官兵衛如水の息子・黒田長政。
しかし、黒田家は徳川から最も危険視された外様大名ですから、徳川氏を刺激する反戦屏風絵など描かせるわけがありません。
勝利者側の一員として徳川の戦争を賛美する意図で描いたものでしょう。

市民や敗者側に対する一方的な乱暴狼藉、略奪は戦利品。勝利者側の特権でした。
勝利者からすればあの戦争は笑いが止まらない素晴らしいものであったことを伝えたものです。

市民が持ち出した財産を奪い、女を強姦し、男女を問わず衣服を強奪し、逆らうものを殺し、首を刈って首級を挙げたとご褒美をもらい、逃げ惑う人々を捕縛して奴隷にする――命懸けの戦争に勝てば濡れ手で粟のぼろ儲け。その様子を描いたものです。

NHKの大河ドラマでは決して描かれませんが、大阪には人買い商人の市が立ったと伝えられています。
蜂須賀軍が合法的に捕獲した人員は177名という記録が残っています。内訳は敵方の雑兵・小者50名、子どもを含む市民男女が127名。徳川方全体でどれほどの人々を捕獲したのか数知れません。
火事場泥棒のように敗者と無防備な市民をとっつかまえ、奴隷にするか売り飛ばすかは勝者の勝手。
秀吉の朝鮮出兵でも大量の朝鮮人が日本に連行されました。
それが当時の常識でした。
     参考:藤本久志『新版 雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り- 』(朝日選書。2005)

しかしその悲惨な戦争が戦国時代として150年も続けば、勝者側にも戦争はもう終わらせようという政治判断が生まれます。
秀吉の刀狩はその第一歩と見ることができ、家康による豊臣氏滅亡によって戦争は終わります。
「あれはひどい戦争だった」――戦争の残酷さ・悲惨さに直面した多くの人々は恒久平和を望むようになったのは当然です。
以後、徳川氏による天下泰平の世が幕末まで続きます。

15年戦争=アジア太平洋戦争でも同様でした。
勝利の美酒に酔う海外侵略の結果は、国家を滅ぼし、国民は生きたまま火に焼かれ、兵は飢え死し、海の藻屑に消えました。――あれはひどい戦争だった――
日本国民が恒久平和を望んだのは当然でした。

いままた米国の腰巾着になって自衛隊を海外出動させるといいます。
戦争は忘れた頃にやって来る―――戦争が好きな連中の自由気ままを放置すれば、被害を受けるのが内外の市民・国民であることは歴史が何度も証明しているところです。

400年前の今日、豊臣氏は滅亡し、徳川勢は逃げ惑う大阪市民に襲いかかったのでした。


 
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i以前の画像が出ない

当ブログに興味を持っていただき 嬉しく思います。
以前利用していたプロバイダーが店仕舞いしたため、現プロバイダーに乗り換えたら当時の画像が消えてしまいました。
それがわかっていたら、このプロバイダーを使わなかったのですが…。
ま、昔の記事だからご勘弁を というところです。
おいおい、同様の記事をリニューアルしてアップしようと思っています。
今後ともよろしくお付き合いください。

 

ブログ内の写真について

何有荘 様

はじめまして。
ブログを拝読し始めてほんの数日なのですが、非常にためになる内容で、楽しませてもらっています。
そこでふと気づいたのですが、「2014-03-12」より過去の記事の写真が、すべて表示されないようです。(念のために閲覧ブラウザを変えたりもしたのですが)。
それはファイルサイズ等の問題でしょうか。それとも、何か別の理由があるのでしょうか。
せっかくの記事がもったいないと思い、コメントさせていただきました。