太東埼――陸軍砲兵隊陣地跡(2)中原吉附地区

カルパート
           登り切ると突然現れる不思議なトンネル

太東漁港入口の信号を東に入ればすぐ漁港となります。その手前、右手は断崖になっており、関東ふれあいの道・ハイキングコース入口があります。九十九里浜を一望できるコースなのに最近入山禁止になりました。
ところが津波の避難場所に指定されていますから、コースは整備されています。
じつはもう一つ、漁港のタコ壺置き場付近から登るコースがあり、ここには入山禁止の看板がありません。ここから登ると画像のような奇妙なトンネルに出会います。

トンネルが風化して落石・崩落の危険があるため, ハイカーを守るためにコンクリ構築物――ボックスカルバートが設置されたような気がしますが、本当の狙いは陸軍が作った地下壕を隠すためじゃないかと勘繰りたくなります。

ボックスカルパートとトンネルとの間のほんのわずかな隙間を、カニの横這いのように通れば中央付近、左側に手掘りのトンネルが現れ、それは奥に続いています。
ボックスカルパート内を通れば、こんな所に洞穴があるとは思いもしません。
カルパートがなければ、だれの目にもトンネルから続く地下壕の存在は明らかで、子どもらが冒険ごっこでもして事故がおきたら大変です。
実際、地下壕の中は水が溜まり、コウモリが飛び、ゲジゲジが天上に棲みついています。

カルパートを通り抜けると広場になり、そこを子細に点検すれば崖に洞窟の入り口があることに気付くでしょう。この洞窟に侵入すると、カルパートのトンネルにつながっていることがわかります。いくつかの小部屋がありました。

広場に戻り、草をかき分けてさらに進むともう一つの地下壕がありました。こちらもいくつかの小部屋があります。やや作りが丁寧ですから、将校執務室や作戦室などが含まれていたのかもしれません。この地下壕の一方の出口からは直接、九十九里浜がのぞけます。ここから戦況を把握しながら作戦指揮を執るつもりだったような気がします。
地下壕探索は長靴、手袋、ヘルメット、懐中電灯は必携。
九十九里浜
            手前は太東漁港。九十九里浜が一望できる
トンネル1トンネル2
      砲兵隊地下壕

広場に戻り、Uターン気味に山道を登るともう一つの広場に出ます。この広場からアップダウンしながら南に進むと展望台となり、木製手すりが破損しているので寄りかかると転落の危険があります。だから入山禁止となったようです。
この展望台から九十九里浜が一望できます。70年前の兵隊さんは毎日ここから太平洋の彼方から出現するであろう敵艦を目を凝らして発見しようとしていたはずです。

ここに展開した陸軍部隊は前回述べたように、北朝鮮から本土に移った「羅津(ラツ)要塞重砲兵連隊」です。九十九里浜に上陸する米軍に備え、ここにはカノン砲が設置されました。近づく敵艦や上陸用舟艇を砲撃して殲滅するのが任務でしょう。

カノン苞八九式十五糎加農砲
画像元 WIKI

地上戦部隊としては陸軍第147師団が配置されました。歩兵第425~428連隊の 4個部隊だったようです。
師団の守備範囲は大網白里から勝浦まで。岬町にどの連隊が何人ぐらい常駐したのか詳細はわかりません。師団の司令部は市原市の鶴舞におかれていました。

1944年(昭和19) 6月のマリアナ沖海戦の敗退で、日本の軍事的敗北はほぼ決定的になりました。
だれもその海戦敗退の責任を取らず、敗戦・終戦の決断を下さず、圧倒的な物量の差で本土は焦土と化していきます。
1億国民全員討ち死にの本土決戦が叫ばれ、この高台の地下基地建設が始まったのは1944年の秋頃からでした。
竣工が翌1945年ですから1年足らずの突貫工事でした。

制海権も制空権も失い、ガソリンもなく、食料もなく…。
実際に米軍上陸となれば猛烈な爆撃にさらされ、沖縄のように山野の地形が変わるような事態になったことでしょう。
遅すぎたポツダム宣言の受諾ですが、1億玉砕は回避されました。

やがて米軍が進駐し、砲は接収され、弾薬は野積みされた後、しばらくしてから銚子沖の海にまとめて投棄されたそうです。


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