太東埼――陸軍砲兵隊陣地跡(1)

碑1 碑2
     羅津要塞重砲兵聨隊記念碑        同 拡大画像

いすみ市立長者小学校の校門を入ると右手に砲兵連隊の碑「羅津要塞重砲兵聨隊内地転用本部並第一中隊」が建っています。平成の時代になってから旧将兵が記念植樹をした、その記念碑です。

「羅津」とは朝鮮半島の東北端に位置する土地で、「ラツ」と読みますが、現地ではナジンと読みます。旧満州国建国後、羅津はソ連の国境に近く、満州と日本の中継地として重要な地となり、砲台を備えた要塞地帯になりました。
現在は先鋒地区と共に羅先(ナソン)経済特区となり、金日成・金正日の巨大な銅像が建っている事でも有名です。

1944年7月末に、本土の防衛強化のため一部の部隊を残し、連隊の主力部隊は本土に戻され、崎山隊長率いる部隊が長者小学校に駐屯してきたのは初秋の頃だといいます。長い間風呂にも入らなかったためか、夷隅川で子どものように水に戯れていたといいます。

すでに軍事上の勝敗は明らかでしたが、いつまでたっても日本は降伏せずに1億玉砕を叫んでおり、米軍は本土上陸、地上戦を計画しておりました。その際、防備の厳しい東京湾には侵攻せず、相模湾か九十九里浜が上陸地点になると、日米双方とも睨んでおりました。

部隊は,和泉と中原の山中を切り開いて砲台を据え,アメリカ軍の上陸に備えました。
太東埼に連なる和泉志茂の陣地は南が開け、日在海岸を敵の上陸地と想定して「野砲」を設置。
中原吉附の陣地は北方の九十九里浜に向けて「カノン砲」が設置されました。

    野砲
    改造三八式野砲 画像元wiki


和泉志茂地区の陣地は太東埼南端に築かれ、眼下に大原八幡岬まで続く和泉浦・日在浦が一望に見渡せますから、敵前上陸阻止の絶好の位置を占めていました。
八幡岬まで10kmもありませんから、野砲で十分対応できます。
ついでながら、大原八幡岬には特攻魚雷・回天の地下基地が作られました。

日在浦
   太東埼から日在浦、大原八幡岬を望む。左の小山に砲台が築かれた。

部隊の最初の仕事は志茂部落から山頂までの通路を切り開くことでした。もちろん重機などありません。ツルハシで岩盤をうがち、スコップですくい、モッコで土砂を運び出さねばなりません。
野砲は敵機の目をくらませるために山腹に穴を掘り、格納していたようです。
地元の人の話では、山頂にコンクリ製のドームがあり、ひと教室分程度のコンクリ広場があり、かなりしっかりした防空壕のような通路が山腹を縫うようにつながっていたといいます。

陣地が完成するのは1945年のことですから、1年未満の突貫作業で構築したことになります。
部隊は退役した在郷軍人を招集して砲術の訓練をしたといいますから、いざとなれば国民総ぐるみで闘うつもりだったのでしょう。
しかし米軍の上陸はなく、戦争は突然終了して軍人は撤収し、陣地は廃墟となりました。

軍が撤収した後は地元の子どもたちの遊び場になり、やがて台風による土砂崩れで崩落し、危険だからと立ち入り禁止になり、70年の年月を経た今、地元の人にも忘れ去られてしまいました。

現在も遺構は一部残っているようですが、現地を見たところ、山頂に至る通路は見当たりません。
篠竹やメダケ・雑木が生い茂り、とてもじゃないが登れません。
一見したところでは手入れの行き届かない山林原野です。そこに戦争遺跡が残っているとは、だれも気付かないことでしょう。


 
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コメント

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No title

たぬきさん、ご愛読ありがとうございます。
そう言って下さるとはげみになります。
志茂の陣地はどこか、資料に詳細はなく、現場を何回見ても確証がなく、たまたま出会った地元の人にお聞きして判明しました。
地元も地元、その近くで生きてきた年配の方は昔を懐かしんで案内してくれました。
今のうちに記録しておくのが大切だと思いアップしました。
またよろしくお願いいたします。

No title

こんにちは
いつも楽しく拝見させていただいています。
私は地元に昔から住んでいるのですが知らなかったことが多くて発見が多いです。
この記事を読んで和泉志茂の陣地を見に行ってきました。
情報の正確さにただ驚くばかりです!
これからも楽しい記事をお願いします!