★海軍レーダー基地跡-いすみ市太東埼(2)

機関銃座
    7.7mm機銃が設置された微高地。立ち入り禁止。

太東崎灯台付近は小さな広場となっており、太平洋が見渡せるすがすがしい場所です。
戦争末期の1943(昭和18)年、山裾に海軍技術研究所太東実験所が設置されました。
山頂には当時の最新鋭レーダー(電波探信儀、略して電探)が設置され、その正式名称を横須賀海軍警備隊太東崎特設見張所といいました。
太東航空基地は厚木の部隊ですから、それぞれ指揮命令系統は別々だったようです。

戦前、この岬の山頂は松やタブの木の原生林で通う道さえありませんでした。
7月から付近の長者町、中根村、古沢村、太東村、東浪見村、一宮町、睦沢村の住民が軍からの出動命令を受けてレーダー基地の建設の突貫工事が始まりました。
午前7時から午後5時までの強制労働で、クワ、ツルハシ、スコップ、モッコを使った人海戦術。
最初に作ったのが現在の灯台へ至る道路。この道は屈曲して狭く、すれ違う観光客の車が難渋していますが、この道も戦争遺跡だと言えば戦争遺跡です。

頂上付近の林は切り開かれて整地され、一番の難作業は高さ数10mの断崖を切り崩す作業だったそうです。各施設の間は深さ2m、幅1.5mの連絡通路が掘られたといいます。
1日600人、延べ10万余人を動員した基礎工事はほぼ半年で終わり、1944年になると一般住民は立ち入り禁止となり、一部の人夫と軍関係者のみで極秘で作業は進められました。

したがってどのような施設が完成したか、住民は知る由もなく、知ろうとすればスパイ容疑で逮捕されかねません。施設を遠望した人は「空中高く突出した大きな金網が時々音を立てて回転していた」といいます。

『岬町史』によれば、大型レーダー1基は直径7.8 mのコンクリ円形地下操作室で操作する仕組みで、分厚いコンクリの塀の上に設置。他は小型レーダー4基。施設防衛のための7.7mm機銃2座。

同年10月には東條内閣の海軍大臣嶋田繁太郎大将が太東の実験所、特設見張所を視察に訪れていますから、海軍の力の入れようを察することができます。

敵機・敵艦をいち早く察知しても、それを迎え撃つ軍用機も艦船もなく、本土は圧倒的な米軍の爆撃にさらされます。
1945年8月、突然戦争は終わり、日本軍は武装解除されます。
米軍立会いの下で電探施設は爆破されました。

やがて断崖は太平洋の荒波による浸食で、30 m以上も崩落・後退し,諸施設の残骸も一緒に海中に没してしまいました。
山上の松林にあった兵舎跡地には昭和25 年に灯台が建設されます。

ところが崖の浸食はさらに進み,昭和47 年に灯台は50 m西へ、現在地に移動しました。
そしてこの初代灯台=旧兵舎跡地も海に没してしまい、今や跡形もありません。
NPO灯台クラブの売店は、初代灯台の灯台守の官舎跡地にあるのだそうです。

最近、横浜にある 「横浜旧軍無線通信資料館」 が開設しているサイトに
太東埼に当時設置された電波探信儀などの写真がアップされていることを知りました。

『岬町史』にあるように、大型1基、小型4基というような単純なものではなさそうです。
以下、同サイトからの引用。いづれも太東埼に設置された電探です。
詳しくは同サイトをご覧ください。

1-1.jpg
海軍1号1型電波探信儀(対空警戒用)

対潜
海軍2号2型電波探信儀

13.jpg
海軍13号電探陸上用空中線

                             次週金曜は太東埼の陸軍遺跡の予定です


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