★海軍レーダー基地跡-いすみ市太東埼(1)

小型レーダー跡
       小型レーダー円形コンクリ基礎台座跡

いすみ市の太東埼は見晴らしの大変良い場所で、紺碧の太平洋が見渡せるばかりでなく、夷隅川の河口など穏やかな内陸の田園風景や、晴れていれば遠くは箱根丹沢までも見渡せる絶景ポイントです。
無人ですが灯台もあり、市は観光地にしようと “恋のビーナス岬” という愛称をつけています。
観光施設は何もなく、地元NPOの灯台クラブの売店が土日にオープンしているだけです。
ガッカリする人もいますが、けばけばしく騒々しい施設がないので大自然は素晴らしいと感激する人が多くいることはうれしいことです。

わたしたちがいすみ市に来た頃、ここはさほど整備されておらず、鬱蒼とした木々の間に粗大ごみが散乱しておりました。
ここは旧海軍レーダー(電探)基地跡で、戦中は軍事施設として立ち入り禁止。
戦後は施設が米軍命令で破壊された跡地に、1950年、有人の灯台が設置されましたが、岬崩壊の危険から50mほど奥に1972年に新たに無人灯台が建設されます。
訪れる人もなく、やがてレーダー跡地も旧灯台も太平洋の荒波で崩壊して海に沈みました。

その荒れた岬をこつこつと整備し続けたのが灯台クラブの人々で、現在は地元の小学生が毎年、植栽に協力するなど地元の誇りになっております。
何年か前に整備した河津桜の並木も今年は満開の花を咲かせました。

平和の象徴ともいえる現在の太東岬も戦時中は 米軍との最終戦争=本土決戦の最前線であり、岬町(当時は太東村)は歴史上最大の人口をかかえることになります。
地元住民の他に、軍人、軍属、民間作業員が多数集まって本土決戦の準備を進めていました。
海軍の航空隊基地については先週アップしました。今週・来週は海軍の電探基地で、陸軍の砲台についてはその後でアップします。

1943年、ガダルカナル沖海戦での敗戦でガダルカナルの日本軍は孤立し、派遣軍3万の内、死者2万。直接の戦死者は5000人。15,000人は餓死、病死と言われます。
そのためガダルカナルは 「飢島」 と略称されることさえありました。
敗因の一つがレーダー装備の差であったとし、陸海軍もレーダーの開発に本腰を入れます。

軍官民一体となった研究が図られ、海軍では横浜の鶴見、東京の月島、そしていすみ市の太東埼に 「海軍技術研究所」 が新設されます。
太東岬には当時、日本最先端の技術を結集したレーダー試験場が設置されることになりました。

研究所跡地
        海軍飛行場建設部隊兵舎跡付近から望む研究所跡地

研究所は岬町浅間下に建設されましたが、その浅間下とはどこかがわからない。
さすが市役所ですね。問い合わせに一発回答がありました。
太東岬台地の南西、山裾の岬町志茂地区。当時は字浅間下といいました。

建物は戦後しばらくは廃墟として残っていましたが、バブルの頃に別荘地として転売され、
現在はそこが研究所跡地であったことを偲ぶよすがはありません。

レーダーの実験場は太平洋を一望にする岬の山頂に設置されました。
山頂に至る道は当時はありません。
山頂の途中まで、つまり旧飯縄寺跡地にまでは細道があったろうと推測します。
おそらく旧飯縄寺跡地に、ちいさな浅間神社の祠があったから、研究所付近の字地名が 「浅間下」 なのでしょう。
旧飯縄寺跡地に現在は浅間神社はなく、民有地となっています。
そこも戦時中は単なる山林原野であったことでしょう。

山頂には大型 1基、小型 4基の電波探信儀と付属建物が設置され、終戦まで機能しました。
施設防衛用の 7.7mm機銃も 2基配備されました。
先週アップした「海軍太東飛行場」もその関連施設と見て良いでしょう。

現在、太東埼山頂に残っている戦争遺跡は、小型電探の円形コンクリ台座と、機銃座跡一つにすぎません。
すべて海中に没しました。その二つには太東灯台美観促進会が解説看板を設置しているので、ここを訪れた観光客は、ここがかつて軍事施設であったことを知ります。
でも、当時の切迫した雰囲気は伝わってきません。
戦後70年も平和に暮らしてきた日本ですから、殺し殺される時代があったことを想像できないのも無理はありません。

来週金曜日につづく

 
関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント