太東海軍航空基地跡(1)


飛行場跡地
           赤線部分が飛行場。国道で分断されている。

1944年、サイパン島が陥落すると米軍の本土空襲が本格化し、やがて本土決戦は必至の情勢になると、米軍の上陸侵攻に備えて房総半島は要塞化します。
いすみ市でも太平洋上に現れる敵を迎撃するため、陸軍、海軍の諸施設が突貫工事で進みました。
飛行場は海軍の施設でした。

その1年前、すでに軍部はそういう事態を想定していたのでしょう、1943年8月に神奈川県厚木航空隊所属の石川大尉率いる海軍施設部隊800名が太東国民小学校に駐屯しました。
目的は飛行場建設で、飛行場と付帯設備が完成するのは1945年5月ですから、ほぼ2年間で竣工したことになります。

飛行場に指定された場所は上記画像に示しました。当時は大部分が荒蕪地で一部にサツマイモ畑と水田がありました。
というのもこの土地は江戸時代には大きく蛇行した夷隅川の河原(右岸)であり、住所は現在の夷隅川をまたいだ江場土地区に属します。ここに住む人々の学区域も同様です。

現在は住宅地になっていますが標高は2.5mぐらい。飛行場を造成する以前は多くが標高1.0m程度の湿地帯だったと思われます。
指定用地内のサツマイモは工事着工前にさっさと収穫しろという命令がありました。

飛行場景色   
          かつて滑走路だった面影を残す細道

現在は当時の面影を残す遺物は何もありません。しかし、外周および中央の滑走路部分が細道として残されています。
この周辺だけ、やけに直線道路だなと思ったことがありますが、飛行場跡地だったからですね。
国道128号線沿いに『Qちゃんの台所』という食堂があります。そこに駐車して飛行場を歩いて1周しても1時間はかかりません。直線で1000mほどの滑走路1本のささやかな飛行場でした。

当時は建設重機などありません。スコップ、ツルハシに天秤棒。せいぜいトロッコがある程度。
旧河川敷ですから軟弱地盤の砂礫地帯で、飛行場の造成、整地作業は難事業だったと伝えられています。
飛行機が発着できる程度の強固さを持った地盤にかさ上げするのに必要な土石は 近くの山を切り崩して確保し、ダンプカーなどありませんからすべて人力で運びました。
近くに和泉川のポンプ場があります。飛行場跡地からこのポンプ場までの道も直線です。この道に当時はトロッコが敷設され、トロッコに土礫を載せ押して運んだようです。
土礫を運び込込んだら、次は表面を平準に固めて飛行機が発着できるようにする――夏は炎天下の作業。冬は極寒の作業が朝から晩まで続き、しかも食糧事情も悪化していた時期でした。


飛行場建設の800名もの兵隊をいつまでも太東国民学校に間借りしているわけにもいきません。
翌年には現在の志茂地区地先に風呂場と炊事場を持つ大型兵舎が建設されました。
現在のスーパーレオ付近にあたる門原地区の山腹をうがって横穴式の格納庫を作りました。
その格納庫に収まった飛行機は滑走路まで人力で押して運びました。
誘導路はコンクリ・アスファルトの道路ではありませんから、それだけでも大変な苦労です。
兵舎、格納庫、滑走路が分散しているのは空襲の被害を分散させるためにでしょう。

ただの野原のような飛行場が完成しましたが、当時すでに飛行機は絶対量が不足していました。
完成の3か月後に終戦となります。その間、この飛行場を利用したのはたった3機だったと伝えられています。

                                (つづく)

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