★柳原白蓮と梅屋庄吉

白蓮梅屋別荘跡地
  柳原白蓮 画像元→ウィキペディア           梅屋別荘跡地記念碑

隣町の睦沢町の歴史民俗資料館で「伊藤左千夫と房総の文学展」(10/4~12/27)があり、そこでなぜか資料として白蓮自筆の短歌短冊が展示されていたので見に行きました。
旧仮名遣い、濁点なしでサラサラと流れる文字の二行書き

    まちわひて泣くかと思ふそら耳に 児のこえそする日もくれたれハ  白蓮

何と書いてあるのか、とても読めません。活字でおこした解説があって助かりました。
読めれば難解な歌ではありません。(撮影禁止なので画像はありません。)
母親の子に対する愛情が素直にあふれた歌です。

―――外出からの帰宅途中、もう日が暮れて暗くなってしまった。遠くで子どもの泣き声が聞こえたのは空耳だったのだろう。きっとわが子は待ちわびて泣いているにちがいない。早く帰らねば―――

睦沢町立歴史民俗資料館所蔵のこの短冊は白蓮自筆でありながら、それを所蔵するに至ったいきさつを資料館自身は「不明」としています。

NHK『花子とアン』で蓮子こと柳原白蓮を初めて知った人も多いと思います。
朝日新聞はこの展示会を紹介する記事の中で「白蓮と房総半島の関連はわからない」と報道しました。
きっと若い新聞記者だから何も知らなかったのでしょう。
白蓮と房総半島を解くカギは、白蓮の7歳年下の恋人宮崎龍介にあります。

龍介は東京帝大生(後に人権派弁護士)。
彼の父親である宮崎滔天(トウテン)は中国の孫文の支援者で、清朝打倒・中華民国建国の辛亥革命の日本における有力な支援者でした。
その滔天父子とは昵懇の間柄であり、孫文の強力な支援者であったのが、長崎出身の梅屋庄吉。映画「日活」の創業者です。

外房線三門(ミカド)駅から東へ徒歩15分。太平洋に面して1万5000坪の別荘を構えていた庄吉は清朝から指名手配中の孫文をこの別荘にかくまい、その後も孫文ら革命派に対する財政的支援を惜しみませんでした。

九州の炭鉱王伊藤伝右衛門に対する白蓮の離縁状
――「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます。」―――
この離縁状は新聞に発表され、世間に大きな衝撃を与えます。

長崎出身の庄吉は福岡の伊藤伝右衛門のことは同じ九州出身の実業家として互いによく承知しており、伝右衛門と白蓮の結婚は地方の炭鉱主と大正天皇のイトコである伯爵令嬢との結婚であり、身分違いの結婚として世を大いに騒がせました。

その破局に滔天の長男龍介が深く関わっていたことも庄吉はよく知っていました。
龍介の子を身ごもった白蓮は伝右衛門との離婚、婚家からの出奔を決意します。

東京での連絡場所となったのが、おそらく日比谷公園の松本楼。
松本楼の経営者は庄吉の親戚筋であり、現副社長の小坂文乃さんの曽祖父が庄吉。

小坂さんの『革命をプロデュースした男』(2010、講談社)によれば、お姫様育ちで何もかも人任せであった白蓮に、三門の別荘にて料理・裁縫・掃除・洗濯など花嫁修業をみっちり仕込んだのが庄吉の妻トクであった。
トクは白蓮にこう言います。
「これからあなたさまは、貧乏人とお暮しをなさるのです。御生活も何もかも、これからはご自分でなされなくてはなりません。人にはお頼みになれないのです」

白蓮は夫・伝右衛門の追及やしつこいマスコミの眼を逃れるために様々な場所を転々としました。
その隠れ家の一つが、外房にあった梅屋庄吉の別荘だったわけです。
およそ91年前の出来事です。

2003.1.16の読売新聞によれば、当時すでに歌人として有名であった白蓮が別荘でお世話になった地元の人に自分の歌を短冊にして贈ったことがあったそうです。
だとすると、その色紙の一枚がやがて回り巡って睦沢の資料館所蔵品になったのでしょう。

読売と比べると朝日は 「白蓮と房総半島の関連はわからない」 とそっけない。
すでに公表されている情報さえに調べるのが面倒くさかったに違いない。

それはともかく、白蓮が梅屋別荘に隠れ潜んでいたことを地元はほとんど何も知りません。
それくらい上手に梅屋庄吉・トク夫妻が白蓮をかくし通した、とも言えるわけで、そのことだけでも秘密を守り、信義を重んじた夫妻の生き方を垣間見る思いが致します。


梅屋庄吉別荘跡地は細分化され、分譲地となっている。近くには森鷗外別荘地もある。
          


 
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