★大原漁港の人間魚雷“回天”基地跡(2)

小浜基地

        旧大原町『大原町史』(2003)より引用。彩色は何有荘

この地図によると、回天の格納庫は3本ほど八幡岬の崖下にありますが、現在確認できるのは中央の1本だけです。
この開口部から中へ入れますが、ちょっとその勇気がありません。周辺はゴミが散乱し、ゴミを捨てるなの看板が立っています。
他の2本の開口部はがけ崩れで埋まってしまったものでしょう。

3本の格納庫からレールが敷かれ、合流して1本になり、桟橋で待機していたキャッチャーボートに抱かれて出撃となります。

付属施設として居住区のほかに、糧食庫、燃料庫、兵器庫、電信室、冷却水槽、操舵機調整場、修理場があり、発電室、浴室は建設予定となっています。

この基地を作るために一部の民間家屋が強制撤去され、一部が接収されたことが地図からわかります。
基地建設という軍事行動に対して、当時の民間人は口を挟む余地はありません。この家は撤去する、この家を接収すると通告され、あっという間にそうなってしまっただろうと想像されます。

一帯は立ち入り禁止で、そこで何が行われているのか地元の人もわかりませんし、聞き出そうとすることは防諜法にひっかかり、スパイとして摘発されかねません。
当時の国民に知る権利などありませんでした。
最近、また秘密何とか法ができて、いやな時代に逆戻りしそうな状況ですね。

この基地の設計図を描いた人物、あるいは部局がどこだかわかりませんが、この大原の回天基地は防諜上、重大な欠陥がありました。
人間魚雷の出撃出入り口が漁港にあるのですから、その訓練内容はいやでも漁民の目に触れてしまいます。
めずらしいものを見たり聞いたりしたら話したくなるのは人間の常ですから、基地司令官は漁民を追い払い、訓練を実施するのに相当苦労したという話が伝わっています。

その点で、大原漁港に基地を設けると決定した人物はオロカであったと今なら言えるわけですが、当時はどうやって米軍の上陸を防ぐかと必死だったし、緊急の課題であったために、大原漁港は不適切だと思った人がいたとしても、そんなことを言う人はいなかったのでしょう。
上官の言うことに何一つさからえない時代でした。

自由に自分の考えを述べること、見たり聞いたりしたことを自由に話せることは戦争に負けて初めて日本人が手にした権利でした。

米軍は東京を空襲する際に、太東埼や大原の八幡崎を空路の目印にしていましたから、日本軍がそこで何やらたくらんで工事をしていることをキャッチしていました。
大原の町のすべてを破壊し焼きつくすような大規模な爆弾投下はありませんでしたが、グラマンなどによる偵察とその機銃掃射での死傷者や、余った爆弾を投下して帰艦する米軍機はありました。
大原公園や発坂峠には高射砲や機銃座が設置されて応戦しましたが、どれくらいの効果があったのか。少なくとも京浜工業地帯への爆撃を阻止するほどの能力はなかったわけです。

1億玉砕、天皇陛下を守るためにすべての国民が死を決意し、死と隣り合わせだった暮らしは1945年8月15日に突然終わりました。
大原の回天基地は閉鎖され、捨てられ忘れ去られました。
その出入り口には『ゴミを捨てないでください』という看板が建てられています。
今は平和な暮らしが続いていますが、そんな時代があったことは忘れてはならないことでしょう。


 
 
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