★信長の孫であり家康の孫である熊姫(ユウヒメ)

東長寺
   今は無住の寺となった大多喜の東長寺に熊姫の木牌がある

織田・徳川攻守同盟は東の武田・北条・今川の三国同盟に対抗するものですが、互いに利用できる範囲で利用し合い、基本は相互不信に満ちていました。
家康の長男・信康の妻は信長の娘・五徳姫で、姫は人質であると同時に織田のスパイでもありました。

織田徳川の軋轢(アツレキ)として典型的な事件が、五徳姫の信長への手紙から始まります。
1579年、信長は家康の長男・信康(22歳)の切腹を命じました。
信康がその母・築山殿と共謀して武田と内通を図った疑いであり、家康は信康を切腹させ、妻の築山殿を暗殺して信長へ従属的忠誠を誓います。
信長は家康を疑っており、優秀な武将であった長男信康を除くことで徳川の戦力を抑圧する狙いもあったことでしょう。
家康が内心で深く信長を恨んだとしても、力関係上、どうすることもできませんでした。

信康の妻・五徳姫は信長の娘ですから、信康・五徳姫の間にできた二人の娘は信長の孫であり、家康の孫になります。
娘の名は登久姫、熊姫。信康切腹当時はそれぞれ4歳、3歳。
五徳姫は実家・信長に引き取られ、二人の娘は家康が引き取りました。

その3年後の1582年、織田・徳川連合軍が武田氏を滅ぼすと、信長は家康を戦勝祝いと称し安土・京都・堺旅行に誘い出します。
ところが信長が本能寺で光秀に暗殺されると、家康は急いで三河に戻り、旧武田領を支配していた織田勢に攻撃を仕掛けてその大半をぶんどってしまいます。
徳川にとって信長が死ねば攻守同盟なんて無意味。動揺し、弱体化した織田領を攻め取るのは、むしろ当然でした。

小田原が滅び、豊臣の天下になると1590年、姉・登久姫(15歳)は秀吉のあっせんで、信濃松本城主小笠原秀政(22才)と結婚します。
同年、14歳の熊姫は徳川家臣、上総大多喜城主本多忠勝の嫡子・忠政(16才)と結婚し、大多喜城に輿入れとなりました。

忠政・熊姫は仲睦まじく、三男二女が生まれます。蛇足ながらその長男忠刻(タダトキ)は後に大阪城を脱出した秀忠の長女・千姫の婿となります。

本多忠勝・忠政父子は1601年に伊勢桑名に転封となりますから、熊姫もそれに伴い、大多喜暮らしは10年間と言うことになります。
血筋だけで言えば、織田浅井の血を引く淀君よりずっと格上ですが、それを誇示することなく謙虚で信心深い女性だったようです。

画像の東長寺は大多喜城の北、800mほどにある曹洞宗のお寺で、熊姫がよく通ったそうですが、現在は住職もおらず、草が伸び放題でした。
寺伝によれば、1514年の建立で、開基は大多喜根古屋城主武田信清、開山は大岩和尚であると言われています。本堂の屋根には武田の紋章である武田菱が輝いていました。

このお寺には熊姫の金襴の袈裟、本多家紋章入り什器、打ち敷きなどが残されており、中でも興味深いのは木牌で、高さ60cm、中央上部に木瓜(ボケ・織田家紋章)が描かれ、 「天下主信長公孫姫君御熊様並御局様小号様」 と記されております。
「霊位」という文言はありませんが、ご位牌として大切にされてきたと思います。

本尊は金箔の釈迦三尊像で、ご住職にお願いしてこれらの品々と仏像を拝観したかったのですが、雨戸がぴしっと閉められ、草はぼうぼう。

大多喜藩10万石だった時代、大多喜から大原までが藩領でしたから、熊姫様もいすみ市をあちこち巡視されたことでしょう。
今は無住寺になったことは残念なことですが、これが時代の流れなのでしょうか。
宝物などは大多喜城の房総博物館が引き取ったそうです。

*****

「熊」の訓読みは「くま」で、音読みは「ユウ」です。
熊野を訓読みすれば「くまの」、音読みすれば「ユゥヤ」。
熊姫は「くまひめ」だったのか「ゆうひめ」だったのか、実ははっきりしていません。


     


 
関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント