★鵜原理想郷の特攻基地
勝場漁港は波穏やかで、特攻基地があったなど気配もありません。
1945年、圧倒的な米軍力にさらされながら、もはや勝利のあてはなく、一億総玉砕を軍部は叫んでおり、米軍の本土上陸は現実味を帯びていました。
すでに制海権・制空権はなく、一人必殺という幕末のようなスローガンの下に、鵜原には5月25日編成の「第55震洋隊」が配置されました。
自動車のエンジンにべニア板で作った船は、「震洋」と名付けられました。太平洋を震撼とさせるという意味でしょう。
もとより使い捨ての船。耐久性はなく、爆薬250kgを積んで敵艦に体当たりするのが任務で、青いペンキが塗られていたので『青ガエル』と蔑称されました。
鵜原には一人用が50隻、二人用が5隻。搭乗要員として214名の若者が配置されました。
同様の部隊は全国に配置され、南方に転属になった部隊もあって2500名以上が戦死しています。
終戦翌日の8月16日には高知県の第128隊は爆発事故で111名が死亡しました。
ちゃちな作りで、エンジンと爆薬が隣り合わせですから事故も多かったようです。
幸いなことに鵜原の部隊は出撃を命じられることなく終戦を迎えます。この間、事故死者が1名出ただけでした。
部隊が展開していたのは鵜原理想郷周辺で、現在はすばらしいハイキングコースとなっています。
そのコースの特徴はトンネルが多いことで、そのトンネルは素掘りの軍事用施設でした。
漁港周辺の断崖に掘られた倉庫もかつては震洋の格納庫だったり、司令部が置かれた場所です、
もはやその事実を知る人も少なくなり、網を繕っていた若い漁師さんに尋ねても知らないとの答えでした。年輩の漁師さんに運よく出会い、ようやくそのありかを突き止めました。
よく見れば崖にそっていくつもの穴があり、立ち入り禁止になっていました。
ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦では作戦ミスによって連合艦隊は壊滅的な大敗北を喫しました。
だれもその責任を取らず、空母も艦載機もない中でベニヤ板特攻艇を考えついたのは連合艦隊作戦参謀の黒島亀人氏。
戦後は米軍に戦争責任を問われることなく、発狂することも自殺することもなく72歳の生涯を全うしました。
今から69年前、全国から集められた214名の若者は 「お国のために」 と、今日を限りの命とおもい定めながら、この漁港周辺で訓練を重ねていたはずです。
ベニヤ板で作った即席モーターボートが彼らの棺桶という現実を彼らはどのように受け止めながら、美しい鵜原の海岸を眺めていたのでしょうか。
鵜原漁協前にある司令部跡トンネル 勝場漁港脇の格納倉庫跡
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