★大多喜藩の精錬所跡地から

出土土器
    上原(ウエバラ)で出土した土器と鉄くず

大多喜の上原には幕末に反射炉があり、洋式製錬が行われたと地元の一部ではささやかれてきました。

反射炉とはレンガ造りの溶鉱炉の炉の部分の天井がお椀型になっており、炎がそこに反射して炉の一部が高温になって鉄鉱石を溶かす仕組みになっています。
現存するものとしては伊豆韮山に、江川太郎左衛門が建設した施設が保存されています。
実用に供された反射炉として一番有名なのは佐賀藩で、江戸防衛のために築かれた台場に設置された大砲がここで製作されました。

幕末の反射炉としては他に薩摩藩、水戸藩が有名で、実物大復元模型が観光名所になっています。
長州藩ではレンガが不足し、玄武岩で組み上げた施設が残っています。

幕末の鎖国政策の下で、欧米のアジア侵略に抗して国防強化策が図られ、そのためには進んだ外国の知識が有効でした。
オランダ語の原書だけを頼りに反射炉を築いた江戸時代の人々は非常に優秀だったと感服せざるをえません。

そのような反射炉が大多喜にも存在したのでしょうか?
日本鉄鋼史のような文献には一切記載がないし、大多喜町史の記載もあいまいです。
つまり公式には大多喜の反射炉は認知されておりません。

しかし、火のないところに煙は立たず、何もない場所に反射炉があったというウワサが伝わるでしょうか。
現に上原では溶けた鉄くずやレンガの破片が発見されており、今回は地元のT先生より、画像のような土器の破片が発見されたとの連絡を受けました。
連絡を受け、公民館で現物を拝見しました。
厚手での土器で、溶けた鉄を受けるための道具だった思います。

大多喜藩の反射炉は未完に終わったと推測しています。
その細かい理由は省略しますが、そもそも反射炉は海防強化の大砲鋳造が急務だったから莫大な予算が投入されたはずで、現存する、あるいは記録がある反射炉はいずれも雄藩と呼ばれる金持ちの藩の事業です。
ところが、大多喜藩にはそれだけの経済力はなかった。むしろ困窮していた。
それにもかかわらず、大多喜藩主・松平正和は幕府きっての開明派若手官僚であり、藩の兵制を様式に改変して海防強化を図っているので、太平洋沿岸の領地の砲台に最新式大砲を設置する必要性を人並み以上に感じていた。
ところが時代は開国・通商と進み、大量の文物が日本に流れ込むことになります。そして欧米ではもはや高炉の時代になり、反射炉が時代遅れと知ることになります。
高性能武器は手っ取り早く輸入できる時代となってしまいました。

こうして反射炉建設の実験炉としての上原の施設は中途半端のまま沙汰やみとなります。
幕末の動乱で幕府陸軍の責任者を務めた大多喜藩主・松平正質はA級戦犯に指名され、大多喜城は官軍によって無血開城。実験炉の資料は散逸してしまったのでしょう。

文献資料には残っていなくとも、上原には鉄くずやレンガの破片、そして今回の土器片などの精錬関係の遺物が出土するのですから、少なくとも実験炉があったことは事実として認めるべきでしょう。
だからこそ、反射炉があったというウワサが地元に残されたのです。たとえそれが完成の域に達していなくとも、反射炉を作る気だった、そのような心意気だったことを地元の人は郷土の歴史として誇りに思って伝えてきたはずです。

遺跡出土地の現状は風雨にさらされ、看板一つありません。
もちろん観光協会のパンフには一行の説明もありません。
江戸初期の大多喜藩初代藩主・本多忠勝一色に町は染まっていますが、幕末の歴史にも脚光が当たれば良いのになと思っています。


 
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