★大原の頼朝伝説――二つの神社

御嶽神社八坂神社
        御嶽神社(大原6894)             八坂神社(大原7004)   

いすみ市大原の裸祭りは近隣十八社が競い合い、潮踏みすることでよく知られています。
その内の二社――上寄瀬(カミヨセ)の御嶽(オンタケ)神社、北寄瀬(キタヨセ)の八坂神社はともに創建が1180年と伝えられる古社です。

1180年に何があったのでしょうか?
1180年とは治承4年、源頼朝が反平家の旗を揚げた年です。
石橋山の戦いで惨敗し、命からがら真鶴半島から海を渡って安房の国に逃亡し、安房・上総・下総の武家を招集して再起をはかった年です。

上総の国の実力者は上総権介(ゴンノスケ)広常でしたから、頼朝のために実際に兵力を招集したのは広常のはずですが、伝説では頼朝がこの地に来たことになっています。
上寄瀬の御嶽神社の由緒について、明治二年の「社籍書上書」によると、

――治承四年(1180)、右兵衛佐(ウヒョウエノスケ)源頼朝、豆州石橋山に敗績の後再び兵を挙げんとして総州に至り、遠近の義兵を催促し、勢(イキオイ)漸(ヨウヤク)く振(ニギワ)う。兵を集めし地を後に寄勢村と名付く。陣中疾病の難を抜かんとし、命じて少彦名(スクナヒコナ)命並に素盞鳴(スサノオ)命を祭らしむ。後、人社を建て当地の鎮守とし春秋の祭礼を営み来れり――

寄瀬(ヨセ)という地名は頼朝が反平家の軍勢を寄せ集めた場所だからという地名起源伝説。
陣中の病害を除くために頼朝が神を祭らせたという神社起源伝説が読み取れます。

ところが下寄瀬の八坂神社もまったく同様の伝説が伝わっています。
境内にある石造の八坂神社縁起によると

――治承四年(1180年)、伊豆国で反平家の旗を挙げた源頼朝が、石橋山で敗れて安房に逃れ、上総・下総の有力武士を従えることに成功。その陣中、疫病の難を防ぐ為命じて、素盞鳴命、少彦名命を祭らしめたのを後世の人がこの地の鎮守としたもである、と「八坂神社明細書」に記されている―――

八坂神社に地名伝説はありませんが神社起源伝説は同一とみて良いでしょう。
ともに治承四年(1180年)に陣中の疫病の難を防ぐ為に頼朝の命により創建されたとしています。
違うのは祭神の順序――御嶽神社=少彦名命、素盞鳴命
                八坂神社=素盞鳴命、少彦名命

頼朝伝説には荒唐無稽の子供騙しみたいな話が多い中で、この地に伝わる伝説にはやや信憑性があります。
最上山の山裾になだらかな扇状地が広がり、旧街道に沿って四方からの交通の便も良い。
大原の地は夷隅地域南部の中心都市であり、昔から栄えた土地でした。この地域で武士を集結させるとなるとこの寄瀬地区はふさわしく思います。
ここで集結して、出陣決起集会を行い、武運長久と五体満足で凱旋することを神仏に祈願したことも十分あり得ることです。

ただ、武士を寄せ集めた場所だから寄瀬村と名付けたという地名説話は単なる語呂合わせで、いだだけません。
おそらくずっと大昔からこの地域は ヨセ と呼ばれてきたのでしょう。漢字を当てるとなれば 与瀬 が適当でしょうか。そこがたまたま集合場所になったため、寄瀬 という漢字に変更された考えられます。
寄瀬で ヨセ と無理やり読ませる理由はそんなことではないでしょうか。

また、祈祷を行った場所に社を建てて神社となったという伝説も疑わしい。
何もない所で祈願したのではなく、すでにそこに御嶽神社、八坂神社の前身となる社があり、そこに命じて祈祷・祈願を行ったと考える方が合理的です。
両社ともいつが創建とも知れぬ小さな古社だったが、それをエポックメーキングな名誉として創建は1180年という伝承が生まれたと思っています。

もちろん、何の根拠もない勝手な想像ですが…。


  
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