★上総広常と玉前神社(2)

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   幕末の一宮藩主・加納久徴(カノウ ヒサアキラ)奉納の鎧   画像は一宮町HPより引用

この鎧は、江戸時代の終わり頃の天保14(1843)年に久徴が上総広常にならって玉前神社に寄進したといわれています。

一宮町HPによれば、萌黄縅胴丸(モエギオドシ ドウマル)といい、萌黄色、つまり若草色の組紐でつづった鎧と言う名前がついていますが、
一説によれば、「色々威腹巻具足(イロイロオドシ ハラマキ グソク)」であり、楠正成など英雄豪傑の残存具足を集めて一領に仕立てた(神社由緒書)ものだそうです。

上総広常を郷土の英雄として発掘・再評価したのが久徴であり、今日、広常の名がそれなりにこの地域で知られているのは久徴の功績です。
久徴は広常の居城を文献から探索し、一宮藩陣屋の南西2kmの高藤城址を居城跡と定めて、顕彰碑を建て、
みずからを広常になぞらえ、玉前神社に鎧を奉納したのでした。
つまり、熱烈な広常ファンでした。

個人的に歴史好きだったのでしょうが、時代がそうさせたとも言えます。
広常は上総の武将2万騎を率いて頼朝を助けて鎌倉幕府の創建に貢献しました。
広常は頼朝の宿願成就と東国安泰を祈願して鎧を玉前神社に奉納しました。

久徴は、幕末の内憂外患(飢饉、朝廷との緊張関係、外国からの開国圧力)の時期に当たり、幕府の安泰を祈願し、自分も広常のごとく上総一宮藩の総力を挙げて徳川将軍を支えるぞと誓って鎧を奉納したのでしょう。

久徴の事績を簡単に紹介します。
まず、一宮の桜の名所と言えば“洞庭湖”ですが、久徴が拡張整備した農業用のダムです。
これにより200haの水田が新たに開拓され、うるおったそうです。
諸藩が財政危機に陥る中で、一宮藩は農業基盤の整備による富国策を推進したわけです。

二つめに海防強化があります。
九十九里浜に海防砲台場を構築。鉄製大砲5門を鋳造し発射訓練を行いました。
品川台場構築の10年前の先進的な政策でした。
軍制改革も進行し、武家の指導下に町民・農民も参加し、オランダ式兵制を採り入れた訓練が行われました。
武士以外の庶民が武器を持つことを公認するのは異常な決断で、身分制度の枠組みを越えた国民皆兵制度の先駆けとして優れた業績であると思います。

今日は平和憲法を守るべきで、国民皆兵などまっぴらごめんですが、当時の課題としては四民平等、国民国家の樹立がおぼろげながら政治指導者の間では日本のあるべき姿として浮かび上がってきておりました。あたらしい時代が彼には見えていたのでしょう。

開国を巡って朝廷と幕府が鋭く対立した時、その打開策として公武合体が唱えられ、皇女和宮が将軍家茂に降嫁しました。
京都から江戸まで中山道を通る和宮の嫁入り行列の一切を奉行として取り仕切ったのが久徴でした。

加納家はもともと紀州徳川家に仕え、吉宗が将軍になると江戸勤務になり、旗本直参として久徴の父・久儔(ヒサトモ)の代に上総一宮に陣屋を建て居城としました。

明治維新とともに一宮藩は朝敵=賊軍とされ、久徴らの功績もかき消されましたが、近年再評価の動きがあります。
1万3千石の小大名とはいえ、代々名君が続いた一宮の人々は今でもお殿様を誇りに思っていることは、一宮の人と話していると感じます。


 
 
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