★上総広常と玉前神社(1)

広常祈願文
  境内にある 「上総権介平広常公顕彰碑」には広常の請願三ケ条が刻まれている

壽永二年(1183)師走の二十二日、上総広常は鎌倉の頼朝屋敷での双六(スゴロク)大会の最中に梶原景時に背後から襲われ絶命しました。
双六って正月に遊ぶ道中双六じゃありませんよ。バックギャモンに似たゲームです。
広常に謀反の疑いがあると梶原が密告し、頼朝が謀殺を許可した惨劇です。

翌、壽永三年の正月の祝賀の行事が自粛となったのは屋敷が血で穢れたからでしょう。
十七日には広常の鎧が上総一宮(玉前神社)から取り寄せられて検分が行われました。
生前、広常が神社に鎧を奉納して何やら祈願したとの報告が神社からあり、頼朝は新たに鎧二領を奉納して広常の鎧を鎌倉に取り寄せたものです。

広常が納めた「小桜皮威(コザクラカワオドシ)の鎧」には、一通の書状が結びつけてありました。
面倒なので現代文にしてみます。

   一、 三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。
   一、 三箇年のうちに、神殿の造営をすること。
   一、 三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること。
   これらの事は頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものである

広常には謀反の意志などさらさらなく、逆に頼朝のために頼朝の祈願成就を神仏に祈っていたと知った頼朝は謀殺を悔やんだと伝えられています。

昭和63年、玉前神社宮司・塚本辰蔵氏ほかの尽力によって画像の『上総権介平朝臣広常公顕彰之碑』が建立されました。
鎌倉幕府樹立に多大な貢献をしながら、無念の死を遂げた広常のために、神社では毎年3月21日春分の日に広常公慰霊祭を執行しています。

碑石背面には次のように刻まれています。

――星霜八百年 源家三代ニシテ北条モ滅ビテ 恩讐(オンシュウ)悉(コトゴト)ク土ニ帰シ 今ハ只(タダ)玉前社頭ノ樹梢(ジュショウ)颯颯(サツサツ)ト風ニ鳴ルノミ 然(シカ)レバ茲(ココ)ニ建碑シテ以テ英霊ヲ慰メ且(カ)ツ顕彰セントス――

思い入れたっぷりの名調子の名文で、それはそのまま一宮の人々の広常に対する想いを反映していると思います。

さて広常謀殺の真の理由は何なのか。本当に誤解から生じたもので、頼朝は悔やんだのか。
頼朝は、謀反の動かぬ証拠(玉前神社願文)を押さえたつもりだったのにアテがはずれた思いはしたでしょうが、悔やみはしなかったと思います。

・謀反の疑いがあると密告し、殺害の実行犯だった梶原は何ら処罰されていない。
・拘束されていた広常の郎党は無罪釈放されたが、広常家は断絶し、お家再興はなかった。
・広常の直轄領は没収され、他の御家人に配分され、そのままになった。
頼朝傘下の大勢力・広常をつぶすことが頼朝の目標であったことが読み取れます。

殺害の動機は、意外なことに願文に示されている広常の 「東国泰平」 にあります。
朝廷に支配されない東国独立国家の樹立――これは関東武士団の悲願でした。一度目は平将門の乱(940年)、二度目は平忠常の乱(1028年)、そして今度こそ三度目の正直です。

広常は頼朝の全国制覇の野望にことごとく反対します。
富士川の戦いで平家が鳥の羽音に驚き自滅したのに追い打ちをかけるのに反対し、常陸の佐竹氏討伐を優先させたこと。東北の藤原氏討伐を夢物語として一蹴したこと。後白河法皇など朝廷工作を無益なことと反対したこと―――。
広常はわが子ほど年の離れた頼朝を年長者として指導し、補佐するつもりだったのでしょうが、その本心は強力な東国軍事国家の独立=「東国泰平」にあったと考えられます。

一方、頼朝は単に源氏の棟梁ではなく武家の棟梁としての地位を朝廷に認めさせ、全国の武士に対する指示命令権を獲得しなければ東国の安定さえもないと考えていました。

義経が決定的に嫌われたのは頼朝の許可を得ずに法王から身分を授けられた点にあります。
人事権を朝廷が持っている限り、朝廷に踊らされる。武士の人事権は鎌倉だけにある、を実現しようとしている最中に義経が喜んで法王に尻尾を振ったのが許せなかった。兄弟の親愛の情の問題ではなかったことに義経は気づかなかったのです。

武士は王家の犬ではない――それは広常も頼朝も同じでしたが根本的な違いがありました。
広常は朝廷とは無関係な関東圏の独立軍事国家の樹立。頼朝は朝廷の意向に左右されない全国規模の武士政権の樹立。

広常のように朝廷を無視することも、義経のように尻尾を振ることも頼朝の武家政権樹立のマスタープラン実現にとっては大きな障害物となっていました。
それが広常暗殺の真の理由です。

広常が尊大で、時として頼朝に臣従の礼をとらなかったなど無礼な行いが多かったから謀反の恐れありとチクられ殺害された、という『吾妻鏡』の記述は死人に口なし--勝者による真相隠し。

いすみ市布施で行われたという大々的な広常供養も頼朝のパフォーマンスだったのでしょう。
頼朝は広常暗殺を悔やんでなんかいなかった―――わたしはそう思います。


 
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