★上総広常の館跡(3)睦沢町、大柳館(オオヤギヤカタ)

大柳
    背後の台地上にかつて大柳館があった

鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』によれば、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総で再決起した時、真っ先に駆けつけたのは下総の300騎を率いる千葉介常胤(チバノスケ ツネタネ)だった。
上総権介広常は出遅れたが 「当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す」 とあります。

2万騎とはどれくらいの動員力でしょうか。
戦国時代の桶狭間の戦いにおいて、尾張の半国を領する織田信長の軍勢は2500。今川義元は三河・駿河・遠江(トオトオミ)三国の軍勢を率いて2万5000。

広常は上総国一国を完全に掌握していたわけではありません。平家方や中立勢力を除いて全力動員をかけたとしても信長並の2500前後を揃えられたかどうか。
『吾妻鏡』の記事2万騎は明らかに誇張です。

とはいえ、数千の軍勢を率いてきたとなると集合場所があったはずで、敵味方をはっきりさせるために上総権介広常館前に全員集合させただろうと思います。
進軍しながらしだいに勢力を膨らませたにせよ、500騎ぐらいは最初から館前に勢ぞろいしたに違いありません。

では広常の館はどこにあったのか。
「長柄郡一宮柳沢城」が上総権介の館だったと古文書にあります。
ところが先週述べた 「一宮高藤城」 では山間地にすぎ、大勢の軍馬将兵が集合する場所としては不適当とわたしは考えます。
先々週の 「大原布施の殿台」は立地に問題はありませんが、古文書に記載はありませんし、集合場所としてはやや西に偏っているでしょう。

第三の可能性として、画像の睦沢町にある千葉秀胤(チバヒデタネ)の居城・大柳館の可能性を考えてみます。

 ① 睦沢は長柄郡に属している。
 ② 鎌倉時代、睦沢を含む周辺地区は玉前荘と呼ばれていた。
 ③ 台地前の埴生川は間もなく一宮川に合流し、一宮玉前神社とは同一経済・文化圏
 ④ 大柳館に隣接する三宮は現在も玉前神社の例大祭を一緒に行う。
つまり大柳(現大八木地区)は当時、「長柄郡一宮」 と表記しても何の問題ありません。

大柳と柳沢は違うじゃないかと言われればその通りですが、大柳館の台地からは睦沢の豊かな水田地帯が一面に見渡すことができ、気持ちの良い場所です。
領主の館からは領内が一望に見渡せる――大原殿台に似たそんな雰囲気の場所です。

周辺は水路が複雑に通っているので、往時はおそらく湿地帯。防衛上、堀の役目を果たしていたことでしょう。このような場所には柳の木がよく育ちます。
周辺の神社仏閣には柳の古木が元気に育っていました。
柳沢館と呼ばれた上総権介の代々の館がここにあったとしたら、ふさわしい景色です。

近くを通る県道148号は一宮・大多喜を結ぶ古くからの街道で、小さな古墳群もあり、大柳館にも小さな古墳があります。
つまり古代からの重要な街道としてどこに出陣するにも便利だし、交通の要衝(ヨウショウ)を押さえる点でも高藤城や殿台よりもはるかに立地上、優れています。

広常暗殺(1183年)の後、広常領は没収され、千葉氏、和田氏などに再分配されます。
千葉秀胤は下総領から上総に移り、この大柳を居城としました。
彼はここを拠点に出世して、1240年には上総権介に任じられます。

千葉秀胤は上総に赴任するにあたって無人の地に新しく大柳館を建設したのでしょうか。
いや、そうではなく、現にあった柳沢館に新しい支配者として入城したと考える方が自然です。
新支配者は旧支配者の館に入城することによって、支配権が継承されたことを領民に示すことができます。

旧上総権介家と区別するために、新上総権介家は柳沢館を大柳館と改称し、大規模な改修を行ったとわたしは考えます。
掘割を整備する際、大きく育った立派な柳をいくつか残してシンボルツリーにしたのでしょう。

織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻め、後にみずからの居城とし、岐阜城と名を改めました。
信長は清州城→小牧城→岐阜城と勢力拡大につれ居城を移し、それまでの城は親族や部下に守備させました。
信長は若い頃、上総介を自称していました。上総の武将にある種の理想を見ていたのでしょうか。

広常の場合、柳沢(=大柳)を古巣としながら高藤城やいくつかの城を出城として守備を固めるとともに、みずからは大原布施に新館を建設して安房方面への備えとしたのだろうと推測しています。
上総権介四代の館「長柄郡一宮柳沢城」とは大柳城のことだった――これが私の勝手な結論です。

なお、新上総権介・千葉秀胤は後に鎌倉の政争に巻き込まれ、1247年の宝治合戦において居城を包囲された際、屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち、4人の息子をはじめとする一族郎党163名とともに自害したと伝えられています。

その後、ここは廃城となりました。
きっと新旧上総権介の怨念がこもっているからでしょうね。
何もかも草葉の陰に埋もれて忘れ去られ、ここが大柳城跡と認定されたのは戦後になってからのことでした。



 
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