★上総広常の館跡(2)上総一ノ宮・高藤(タカトウ)城

石碑
  幕末の一宮藩主・加納久徴(ヒサアキラ)が広常の功績をたたえて石碑を建てた

上総介(カズサノスケ)とは上総国の次官(副知事相当)を意味しますが、上総国は親王任国といい、皇族が上総守(知事相当)になる慣習で、しかも現地には赴任しません。だから、上総介が実質的な長官でした。

平安末期、その長官は中央(平家一門)から派遣され、国衙(コクガ=現市川市)に駐在し、名目的には上総国全体に支配権がありましたが、中央から派遣された天下りのため、在地の有力豪族が権介(ゴンノスケ=副知事助役)となって補助しておりました。

現地の事情にうとく中央目線の上総介よりも、地元代表の権介の方が地元優先の現実主義で発言力が強くなるのは当然です。
広常は父子四代(常家-常明-常隆-広常)にわたり上総権介を務めた名門で、初代常家の居城について古文書は 「上総国長柄郡一宮柳沢城」 と記してあります。
一宮には広常の城と目される高藤城がある。だからこの高藤城が柳沢城であると一宮町では推定しています。

JR上総一ノ宮駅から南西に直線で 2 kmほどの山間部にある山城です。
荒れた城址を整備して記念碑を建てた加納久徴でしたが、戦後はまた荒廃し、それをまた整備しなおして今日に至ります。
付近にいくつか農業用溜池があるのは、掘割の名残と見ることができます。
城の北・東・南は切り立った崖になっており、現在の上り口は下記地図のとおり城の東です。
当時はおそらく裏門に相当し、頂上までは近いのに急坂なので登るのに疲れます。敵が容易に攻め込めない工夫でしょう。
あるいは石碑を建てるために断崖を切り崩して加納久徴が新たに作った道かもしれません。
途中からはまるで山道。ハイキングのつもりで登る必要があります。

山頂は尾根筋にそって平坦にならされ、土塁に囲まれた曲輪(クルワ)や平場、堀切などがいくつか区分され様子が確認できます。
登り切った場所が主郭と思われ、加納久徴が建てた画像の顕彰碑があります。
漢文で約800文字。とても読みきれるものではありません。

隣接する北部分の平地からは遠く一宮の街並みとはるかに太平洋が見渡せるそうですが、当日は曇りで近くの山以外は見通しがありませんでした。

城の正門=大手門に相当するのは城の西側、妙勝寺の地域と推定されていますが、そこに至る道はありません。
というのも現在の行政区分からは城域の西半分・妙勝寺、正門付近は睦沢町、頂上からの東半分は一宮町に二分されており、城域の全容は一括管理されておりません。
大手門からは騎馬で頂上の館まで通えたそうですが、今は荒廃した山林・荒れ地なので徒歩でもまず不可能です。

ここに城があったことは付近の字地名から推測されます。
刀工隊谷、箭谷、立旗阪、馬鐙、火長、松皀隷、番細工、鍛治給、売場、軍抜台、御堂谷など。
読み方が分からなくとも気にしないでください。

しかも単なる山城ではなかったことは伊南君、和泉君という地名があり、伊南の豪族、和泉の豪族の屋敷があったことがうかがわれ、西側平坦部には広常直属の武士の館があったと伝えられています。
つまり上総権介としてのミニ行政庁舎の機能を併せ持っていたと推測されています。

一宮の人々は広常のファンが多く、この高藤城こそ上総権介家累代の柳沢城であると信じて疑わず、広常は2万の軍勢を引き連れてここの館から出発して頼朝に合流したと誇りに思っています。

しかし高藤山に広常館が確かに存在していたとしても、それが上総氏の居城・柳沢城だという証明にはなっていません。
高藤城は柳沢城の別名だとさらりと語られると、ちょっとなぁと思ってしまいます。

また、あまりに狭い山間地にあることも気になります。
小さいながらも都の機能を持っていたとなると、もう少し広い平野部が欲しい気がします。
威風堂々(イフウドウドウ)の大軍勢を出発させるには狭すぎる気がしてなりません。





 
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