★上総広常供養塔(2)布施

広常舎利塔
  いすみ市大原の布施地区に古い石塔があり、かつて“景清塚”と呼ばれていた。

景清とは近松門左衛門の人形浄瑠璃“出世景清”の主人公、平家の残党・悪七兵衛景清のことで、平家滅亡後も頼朝の命を執拗につけ狙い、悲劇的な大活躍をしました。
景清は歌舞伎十八番の一つにもなった人気の演目で、確か最近も上演されたはずです。

実在のモデルとして通称・上総景清がいましたが、物語はフィクションです。
歌舞伎や浄瑠璃が爆発的にヒットした江戸時代、布施地区の人々が名も知れぬ古い石塔を見て、景清の記念碑、もしくは供養塔だとして永らく祀ってきたようです。

ところが昭和の調査によると石塔には
「上総介従三位平之朝臣広常卿」、「総見院殿観宝広恒大居士供養塔也」と書かれており、描かれた線刻模様から鎌倉時代の作と推定されました。

つまり江戸時代には上総広常の供養塔であることはすっかり忘れ去られ、“確か上総なんとかだったから景清なんじゃないの”――ということで“景清塚”と呼ばれてきてしまったようです。

教育委員会の立てた碑には単に「布施塚の石塔 一基」とあり、「広常供養塔」とはありません。
石塔を守る祠風の建物奥には「総見院殿」と墨書された古びた額が掛けてありますが、元々は建物はなく風雨にさらされてきたことは一目瞭然です。

場所は非常にわかりにくい。県道174号、下布施信号から南(御宿方面)へ100mほど。古びたJA倉庫前に小さな丘があり、石の細い階段を登っていくとあります。
すぐ近くにJAの新しい事務所があるので、最初は場所を間違えて迷いました。

石塔の形式はわたしは見たことのないもので、“舎利塔・ シャリトウ”だそうです。
舎利とは仏様の遺骨のことで、どうやら底部の四角の石の内部がくり貫かれて遺骨を納められるようになっているようです。
舎利塔様式の供養塔でしょう。

仔細に見ると上部と下部とはアンバランスですし、岩の材質も異なっているように見えます。
当初からこのスタイルであったとは思えません。
背が高かった石塔が崩れ落ち、後に適当な石材で簡易補修されたものだとわたしは思います。

「上総介従三位平之朝臣広常卿」とあるのは無実が証明された後、追善供養の際に職・身分とも追贈されたものと思われます。
しかし、やや疑問が残ります。
「平之朝臣広常」ではなく、「平朝臣広常」が正しい書き方ではないでしょうか。
また追贈にせよ、従三位は地方官としては破格の高位です。

広常が暗殺された1183年段階では、頼朝でさえ従五位下でした。
広常の当時の位階を仮に頼朝より1階級下の正六位上と仮定しても11階級特進になります。
ある時期に地元の人が広常を慕って勝手に追贈して刻んだのかもしれません。

布施という珍しい地名は、平家追討の旗揚げに大きな役割を果たした広常を無実の罪で死に追いやった後、頼朝の命で追善供養が行なわれた際、鎌倉からその時の布施料として指定された地域だからと言われています。

ここから西南へ約1kmの台地一体を殿台(トノダイ)といい、広常の館跡と想定されています。
広常館からひと目で見渡せる範囲の地域の年貢が布施料に充てられ、殿台の広常館を望むこの地に供養塔が建てられ、壮麗な供養の儀式が執行されたのでしょうか。






 
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