★上総広常の供養塔(1)大原

広常供養塔
   鎌倉時代らしい小さな五輪塔の供養塔。金光寺(大原3828)

丸や四角の形の異なった石を五つ重ねた五輪塔は、それぞれの石が「地水風火空」を意味し、「地水風火空」は仏教ではこの世界を構成する五要素(=五大)を示しています。
お墓の形式としては鎌倉時代に流行し、鎌倉・寿福寺にある北条政子の墓も五輪塔です。
源頼朝から謀反人として鎌倉で暗殺された広常の遺骸がここにある訳がなく、これは供養塔です。
左側の新しい石碑には「上総介廣常供養院」とありました。

上総広常は平氏なのになぜ源氏の味方をしたのか、という質問を読者から受けました。

源平の争いと言いますから無理からぬ疑問ですが、平家滅亡・鎌倉幕府成立時の源平合戦は、オール源氏とオール平氏の争いではありませんでした。
源頼朝を棟梁とかつぐ全国の武士団と、圧政を敷く平家=平清盛一族との争乱です。

清盛一族(伊勢平氏)が全国の富を独占し、平氏といえども地方武士は血のつながりは薄く、搾取の対象として扱われましたから、平家政権に対する反発は地方に渦巻いていました。
実の兄弟でも血で血を洗う争乱の時代ですから、平氏であるという冠は大して意味を持ちません。
頼朝の後見人である北条氏をはじめ、関東の平氏系武士団の多くは頼朝を支持しました。

逆に、源氏なのに平家に味方した関東武士に斎藤別当実盛がいます。
平家に多少の義理があり、源平戦争でも最後まで平家方につき、老体を隠すため白髪を黒髪に染めて木曽義仲軍に対して大奮闘の末に首を獲られています。(『平家物語』巻七:実盛最期)

「一所懸命」という言葉はこの時代に生まれました。
自分の領地は命がけで守るという意味です。土地を奪われたら生きていけませんからね。
平家は地方武士を圧迫し収奪する。一方、頼朝は武士の既得権を守る政治方針でした。
それが鎌倉幕府成立の原動力です。

広常の場合、一族内部の争いを収拾してようやく上総介に任命されようとする時期に、中央政府から上総介として着任してきたのは平清盛の部下・伊藤忠清でした。
広常は反発し、忠清とはことごとく対立している時期に頼朝が決起したのです。
広常は頼朝の人物を見定めたうえで、頼朝に加勢しました。
慎重な性格だったのでしょう。
それは何よりも自らの支配地である上総を中央政府の収奪から守るための決断でした。

「一所懸命」が保障されれば大将が源氏であろうと平氏であろうと問題ではありません。
たまたま源氏の頼朝が平家(清盛一派)の搾取・専横体制に反旗を翻したので、その勢いに家運を賭けたわけです。
もともと広常は平治の乱(1160)では頼朝の父・義朝の配下で清盛一派と闘っていますから、中央の平家政権に親しみを感じていません。

自分の土地は自分で守るという「一所懸命」の思想の共感者である広常はおそらく、配下の武将のそれぞれの領地についても配慮が行き届く、義理人情に厚かったのでしょう。
広常による上総統一は草木がなびくように、自然に広常の下に勢力が結集したと伝えられています。

その広常が謀反の疑いで成敗された(1183年)と聞いた地元の人々は「そんなバカな、そんなはずがない」とひどく驚いたことでしょう。
まもなく、無実の罪だったと知らされた時はどんな思いだったでしょうか。

地元の人々は広常の無念を思いやり、広常の菩提を弔い供養するために五輪塔を建ててお参りしました。
どのような仔細があって金光寺に供養塔があるのか知られていませんが、このお寺も広常ゆかりのお寺だとして間違いないでしょう。
今はもう、広常って誰? の時代になってしまいましたが、大原の人々は長い間広常の供養を続けてきたのでした。


 
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