★上総広常・尾骨神社の伝説

 尾骨
           いすみ市山田1304の向かい側。県道176号沿い

いすみ市には毎年、秋になると白鳥が訪れる場所があります。布施地域の田んぼがお気に入りのエサ場なのでその時期になると多くのアマチュアカメラマンが集まります。近くには殿台という地区があり、むかし上総広常の館があった場所と伝えられています。

その殿台から県道176号に沿って北上すると山田の交差点になり、その少し手前に尾骨神社と尾骨橋があります。
車で通る人はまず気づかないでしょう。小さな橋のたもとの小さな祠(ホコラ)ですが、地元の人によって画像のように手厚く祀られています。それは広常の愛馬を祀ったものです。

治承4(1180)年8月、頼朝は平家打倒の兵を挙げました。ところが事前に察知され、準備不足のまま戦闘が開始されて一敗地にまみれます。(石橋山の戦い)
神奈川県真鶴岬から海を渡って千葉県安房に上陸したのが8月28日。頼朝はただちに態勢を挽回すべく様々な手を打ちますが、その間の頼朝の動静の詳細は不明です。

9月9日、頼朝は下総の千葉介常胤(チバノスケ ツネタネ)から支援する書状を受け、17日、下総の国府に迎えられました。国府のある現市川市まで安房からは内房ルートを通ったと見るのが妥当でしょう。
その二日後、19日には隅田川近くの陣で上総広常を謁見しています。
したがって尾骨神社の伝説となる事故が起きたのはその数日前、9月16日前後のことでしょう。現代の暦では10月中旬のできごとです。

―――頼朝に加勢するかどうか、日和見を決めていた上総広常も親類筋の千葉介常胤が頼朝勢に加わったと知ると重い腰をあげた。参陣するのが遅くなれば反逆者として打たれるやも知れぬ。ともかく頼朝に会うのが先じゃ。
殿台館に数千の騎馬武者を招集し、意気揚々と出立した広常であったが、内心は頼朝と面会した時にどう振る舞うべきかを馬上であれこれ思案していた。

軍列は小さな小川にさしかかった。次々に軍馬は渡り、広常もためらわず馬を進めた。
ところが馬は足を滑らし、突然、棒立ちになるとドーッと倒れた。広常は落馬した。
武士が落馬するのは大変な屈辱である。
ただちに供の物が駆け寄り広常を助け起こしたが、広常も腰をしたたか打った。
馬はと見ると立ち上がれない。立とうとするが前足がむなしく宙を蹴っている。

「尾骨が折れておる。骨盤も痛めたようじゃな。哀れじゃが始末するしかあるまい」

馬は運動神経が集中している尾骨を折ると下半身が麻痺して動けない。
動けず役に立たない馬は始末するしかない。始末するのが武士の情けというものだった。
御大将が落馬するとは不吉な、出陣の折に縁起が悪いと兵たちは不安になりざわめいた。
広常は狼狽する部下を制し、いや、そううではないと諭した。

「この馬は我らが身代わりとなって尾骨を折ったのじゃ。慢心すれば足をすくわれる。さすれば我らが命も危ない。心せよ者ども。この馬を我らを教え守る神として丁寧に葬り祀るのじゃ」

軍勢は行軍を中断し、尾骨を折った馬のとどめをさすと手厚く葬り、祭事を執行してから進軍を再開した。
後にこの場所に立てられて祠を尾骨神社といい、小川をまたぐ橋を尾骨橋という――

広常は鎌倉幕府創生期の立役者ですが、ギラギラした立身出世欲はなかったようです。
自分の領土が安泰ならばそれでよいという保守的な傾向が強く、頼朝の全国制覇という野望を非現実的と見、年配者として若い頼朝を諌めたようです。
それは現代風に言えば、政治方針の違い。
頼朝にとっては目の上のタンコブのように思えたのは、広常が配下の武将の中では最大の軍事力を持っており、その発言に影響力があったからでしょう。
梶原景時が「広常に謀反の疑いがある」と悪口を告げた時、「よし、やれ!」と即座に命じたのは景時・頼朝の以心伝心のなせる業(ワザ)です。

広常暗殺の報が伝わると人々は 「馬の尾骨が折れたのはやはり不吉の前兆だった」 と思いましたが、その馬は不吉の前兆を示して慢心を諌めた神として今日まで地元の人々によって祀られ続けています。
おそらく 『身代わり地蔵』 と同じような感覚で信仰されているのでしょう。



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