★頼朝伝説(勝浦)上総広常の兜塚

平君碑
   お墓のように見えるが「上総権介平君碑」と刻まれている

鎌倉は川崎に住んでいた頃は何度も訪れたことがあります。
海に面し三方を山に囲まれた鎌倉は天然の要害と言える立地条件で、外部とは何本かの切通しといわれる街道が通じていました。
今でも昔の面影を残す朝比奈切通しに岩肌から湧き出す名水があり、梶原景時が頼朝の命により1183年に上総介広常を暗殺し、この湧き水で太刀の血を洗い流したと伝えられています。

画像の碑は大多喜・勝浦を結ぶ国道297号の宿戸バス停にあるコンビニの脇にある空き地に大きな2本の杉の木が立っており、その杉の木の間に建てられています。
碑の建立者は、「上総(カズサ)権介(ゴンノスケ)平広常(タイラノヒロツネ)」が正しい職氏名だと考えていますが、謀反人の汚名を着せられた広常の名前は刻まず、単に「平君」としたようです。

周到に準備された暗殺だったため、鎌倉の広常屋敷も同時に包囲され武装解除を強いられたようです。何人かが切り死にし、何人かは降伏し、何人かは脱走しました。
脱走者は広常の兜を持ち出し、海を渡ってこの上総の地に戻り、主君の無念を弔うために兜を埋めたと伝えられています。

広常暗殺の真の理由は不明です。
当時関東最大の武力を動員できる広常は、平家の血筋を引いていますが平治の乱では頼朝の父・義朝の配下でした。
頼朝は父の縁から広常を配下とみなして服属を要求したのですが、平家全盛の時代に頼朝に加勢するのをためらったとか、服属した後も何かと傲慢であったとか幕府公認歴史書『吾妻鏡』はさまざまに伝えていますが、勝者が記述した敗者の事情ですからアテにはなりません。

だいたい広常は2万騎を率いて頼朝に謁見したと『吾妻鏡』にありますが、『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎ですから、何が正しいやら。

三流週刊誌並みのゴシップ記事をあれこれ並べて暗殺を正当化したのですが、後に上総一ノ宮・玉前神社への起請文から広常には反意がなかったと頼朝は知って涙したとも書いてありますが、いかにもウソくさい。

ともあれ、以後、鎌倉での頼朝独裁体制が確立していきます。そのためのスケープゴートにされたのでしょうね。
地元の評判は悪くなく、広常関連の伝説の地がいくつかあります。
この兜塚もその一つで、兜を埋めたという事実があったかどうかは問題ではなく、無念の死を強いられた広常を傷(イタ)まずにはいられなかった人々が、彼の菩提を弔って建立したものでしょう。
広常は夷隅地方では郷土の英雄ですから。

 
 
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