★源頼朝と渡し鍋伝説 (勝浦)

平島
  八幡岬公園(勝浦城址)から赤い鳥居の平島が見える

頼朝一行が急な山道を登りきると眼下に真っ青な海が開けた。吹きぬける風が心地よい。

「頼朝さま、ようやく勝浦に到着しました」
「うむ。勝つ浦とは縁起の良い名前じゃ。村に着く前に一休みするか。各々方も馬から降り、馬を休ませるが良い」

頼朝は馬から降りると鞍(クラ)を外して傍らの枝振りの良い松の枝に掛けた。びっしょり汗をかいていた馬は鞍をはずされ、吹く風に体をさらしてうれしそうにいなないた。

「ところで向こうに見えるあの島は何じゃ。由緒ありげじゃのう」
「はっ。地元の漁民によればこの地を開いた神様のお社(ヤシロ)があるとか」
「何。神社があるとは吉報じゃ。勝つ浦ゆえ、必勝祈願にぜひとも参拝せねばなるまい」

一行は狭くて急な細道をたどって村に着くと社のある島への道を尋ねた。

「あいにく、今は満潮で船でなければ渡れぬそうです」
「ならば船を探してまいれ、愚か者。善は急げじゃ」

漁師の手漕ぎ船で島に渡った頼朝は不思議に心が落ち着いてくるのを感じた。
深い森の中の古びた社殿にはだれ一人いなかったが、源家再興、必勝祈願のあと、ついうとうとと眠ってしまった。疲れが出たのであろうが心地よい眠りであった。

夜になって供の者どもは大騒ぎとなった。頼朝さまがどこにもいらっしゃらない。
島に渡ったきりまだお戻りになっていないのか。そんなばかな。
探せ、島に渡るのだ。
漁民は船を出せないと言い張る。この付近は岩礁が多く、夜船を出すのは自殺行為だとして頑として首を縦に振らない。

夜明けとともに数隻の捜索船が島に上陸した。
たいして広い島ではない。頼朝さまぁと口々に大声で叫ぶと頼朝が現れた

「あぁ良く寝たぞ。源家の必勝間違いなしとの神様のお告げもあった」
「それはおめでとうございまする。しかし、われらどんなに心配したことか」
「それはすまなかった。とろで腹がへった。何か食い物はないか」
「あいにく、あわてておりましたゆえ…」
「恐れ入りますが、この鍋に粗末なものですが温かいものがございます」
「おお、それはうれしい。その鍋をこちらに渡せ。ところでおぬし、名はなんと申す」
「ひなの漁民ゆえ、名などありませぬ」
「そうか。それでは本日より鍋を渡した“渡鍋(ワタシナベ)”と名乗るようにせい。後日、鎌倉へ参られよ。たっぷり恩賞を遣わそう」
「ははぁ。ありがたき幸せ」

*******

先日、渡鍋さんという方と知り合いました。渡鍋でワタナベと読むのは珍しいと思ったら、ワタシナベだというのでびっくりしました。おもしろい姓だなと思ったのですが、上記のような伝説が背後にあったのですね。
外房地域には一風変わった姓があり、例えば“一藁(イチワラ)”さんとか、頼朝伝説と結びついている例が多く、しかも現在もご子孫が近くにお住まいだというので驚きます。

上記伝説の島は1601年の大津波で壊滅的な打撃を受け、元禄の大地震で沈下し、現在は海面すれすれの岩場に過ぎませんが、かつて社殿があった証(アカシ)として赤い鳥居が建っています。
鎌倉時代前期まで、干潮の時は徒歩で渡れた島だったようです。
毎年9月の勝浦の祭には御座船が仕立てられて神輿がこの島(現在名は「平島」)を巡ります。

この神社は現在は安全な高台に移設され、ビッグひな祭りで有名な遠見岬(トミサキ)神社。
頼朝が枕にしたという「枕石」は八幡岬=勝浦城址にある八幡神社に奉納されていたといいます。

なお、頼朝が馬の鞍をはずした山は、串浜大橋交差点付近の山で『鞍掛山』と名付けられています。
鎌倉時代の街道は洪水や土砂崩れをさけるため、尾根筋につけられることが多く、頼朝一行が山の頂上で休憩したという伝説は、その道がかつての街道であったことを示しています。
ならば頼朝さまもこの道を通り、ここで休憩したに違いないと村人の中で言い伝えられてきたのでしょう。


 
 
関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント