★源頼朝と四ツ石伝説 (勝浦)

四ツ石付近
       国道から3mほど降りた地点から撮影した四ツ石付近の夷隅川 

勝浦市の佐野集落は大多喜町と境を接し、近くに、「四つ石」というバス停があります。
バスが通る国道脇に、勝浦に源を発する夷隅川が深い谷を作って流れており、国道297号は片側1車線の道とはいえ、通称“大多喜街道”ですから、車の流れも多く、昔から大多喜・勝浦を結ぶ重要な街道として栄えた道です。

今から834年ほど昔、治承4年(1180)年に伊豆の流人だった源頼朝は平家討伐の兵を挙げましたが石橋山の戦いに敗れ、命からがら、房総半島に船で逃れて再起をはかります。

ところが上総・安房の豪族は必ずしも頼朝の味方とは限りません。
頼朝の首を差し出せば平家からたんまりご褒美がもらえます。
地元の長狭六郎常伴が頼朝の宿舎を襲うとのうわさがあったので,頼朝は逆に夜襲をかけて長狭氏を滅ぼしています。

そのような不安定な地位にあった頼朝は四方八方に使いを出し、各地の豪族に平家打倒のため臣従するように強く求めました。
さて、この地区に残る伝説とは次のようなものです。

――頼朝主従が騎馬で大多喜街道を進んでいる時、頼朝はふと軍馬の音が聞こえたような気がして歩みを止めた。
「殿、いかがなされましたか」
「いやなに、馬の蹄の音が遠くで聞こえたような気がしたが」
「…」
「… そのようですな。しかも相当の数のように思われます」
「近くに源家ゆかりの者や臣従を誓った武者はおるのか」
「いや、おりませぬ」
「うむ、危ないな」

遠くから乱れた馬蹄の音がはっきり聞こえてくるようになった。おそらく数十頭の馬だ。残党狩りよろしく頼朝の首をねらっているに違いあるまい。
危険を感じた頼朝は道を外れ、川に降りるよう指示する。しかし夷隅川は昨夜からの雨で増水し、川幅は広く、流れも急でとても渡れない。

そうこうしているうちに騎馬軍団に発見されてしまった。
「源氏の御曹司、頼朝殿とお見うけいたす」
「逃げるとは卑怯なり」
「正々堂々、いざ尋常に勝負せよ」とわめき散らす。

多勢に無勢。川を背にして取り囲まれれば全滅は必至の情勢であった。
頼朝は意を決し
  「南無八幡大菩薩 !!」
と大音声で叫びながら馬に鞭を当て、夷隅川に飛び込んだ。
するとどうだろう。大きな岩が次々に川底からせり上がって来るではないか。
頼朝の馬はこの岩を足場にして対岸に渡り切った。それを見た家来も続いた。

追っ手はこの光景に眼を見張った。
そして次の瞬間、岩は消えた。流されたのか、沈んだのか。
追っ手は黙りこくった。そして
「頼朝殿には神仏の加護がある。」
「我らが束になってもかなう相手ではござらぬ」
「深追いは無用じゃ。戻ろう」

追っ手はもと来た道を戻っていき、頼朝主従は難を逃れた。
この時に川底から出てきた岩は四つあったとの追っ手の証言により、この場所は四ツ石という地名となった―――

******

頼朝自身が少数の部下とこの道を通った事実は確認されていません。
あるいは頼朝の使者が大多喜街道を通過する際に地方豪族に襲われたことがあったのでしょうか。

この伝説のポイントは、頼朝が房総に上陸した際はヨレヨレで、中央政権=平家に与(クミ)する輩に寝首をかかれてもおかしくない状況だった。それにもかかわらず、後に征夷大将軍になるのは神仏の加護があったからで、わが集落もその頼朝公ゆかりの土地であるという自慢話が下地になって生まれた伝説であろうと推察します。

房総半島は八幡様が多い地域で、由緒ある八幡神社は鎌倉時代創建となっています。
武士の、武士による、武士のための政権という前代未聞の社会変革をなしとげた頼朝公が信じていた八幡大菩薩は霊験あらたかである、と人気を呼んだのでしょう。
その頼朝公を助け、武家政権確立の基礎を築いたのは房総の武士団であるという自負が、房総地域に数多くの頼朝伝説を残すことになりました。

                 いすみ市の頼朝伝説は「何有荘 頼朝伝説」でご検索ください。
 


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