★歴史の道――発坂(ホッサカ)峠 

 
    旗立山(95m)からは太平洋が見わたせる(たぶん御宿)

♪汽笛一声新橋を… おなじみの鉄道唱歌は全国的に様々なバリエーションを生み出し、いすみ鉄道が「木原線」だった頃、地元出身の国鉄マン 苅米繁幸氏によって木原線版が生まれました。

2番 (西大原駅)
    まもなく左に坂水寺(バンスイジ)
       義人杢右衛門墓所(ギジン モクエモン ハカドコロ)
          昔栄えし街道の
            発坂峠は海も見ゆ

天気も良くヒマだったので、車で30分、発坂峠にでかけました。
西大原駅下車の場合、駅前の国道を横切り、登山口に向かって北西の飯塚方面に歩きます。
わたしは車でしたから国道465線・旧佐室(サムロ)トンネルに路駐し、徒歩15分ほどの飯塚の観音堂(若山2269付近)へ向かいました。
観音堂脇から登山道となり、これが“昔栄えし街道”で、明治30年頃までは生活道路でした。

房総特有の粘板岩の山道はかつて階段であったろう道が長い年月ですり減り、さすが旧道の趣があります。道は結構荒れていますが、道なりに進めば迷うことはありません。
途中、発坂峠の石柱があります。これは単なる道標です。

やがて右側が人工的に垂直に切り落とした崖、左側は自然の深い谷となると発坂峠となります。
ここで戦国時代(1589年)にいすみ市の土岐氏と安房の里見氏の激戦がありました。

御宿に上陸した里見軍1500人の本隊はそのまま北上すると見せかけて、別働隊300人を坂水寺・発坂峠経由で東から回り込ませ、土岐氏の前線基地と本城を分断し、前線に出張った万木城城主・土岐頼春を挟撃するために進軍していました。

農民からの注進で里見軍の動きを察知した土岐頼春は急きょ陣を移し、発坂峠に伏兵を置き、旗立山に水色地に白の桔梗の紋を染め抜いた土岐氏の旗をたてました。(それで旗立山)
里見軍は不意を衝かれ、戦死者165名、土岐氏側の戦死者は16名と伝えられています。

その山道を歩きながら、ここで上から大岩を落とされたり、弓を射かけられたらひとたまりもないなと思いました。
イノシシの踏み跡があり、イノシシが突進してきたら万事休すだなと恐ろしくなります。
崖っぷちの山道で里見軍は前へ進めず、後ろにも戻れず。矢尽き、刀折れて大敗北。
地元では戦史に残る決戦で、御宿の民俗資料館の地図では「矢折峠」と記載されています。

この道は古代からよく知られた街道らしく、わたしが見た限りでは5~6個の洞穴がありました。
これは「佐室洞穴古墳」と呼ばれる古墳時代末期の遺跡ですが、教育委員会の看板はなく、荒れるままになっています。
また切り立った崖は江戸時代の茶店跡で、発坂峠を城塞化した土岐氏の遺構を上手に再利用したものです。よく見れば柱や梁の穴を発見できるでしょう。

やがて左手に「旗立山」の石標があるちょっとした広場に着き、十字路となります。直進方向は四駆の軽トラが通れそうな林道で、おそらく土岐氏の軍勢が利用した道。右手はそれに続く新しい道で、目指すは左手に少し上がった場所の小高い旗立山になります。
旗立山はベンチもあり、景色もよく(画像)、絶好の休憩所で浅間神社があります。

さて、十字路広場に戻り林道を進み、旗立山の背後を左に回り込み、右にコンクリ林道を分けます。
この林道は山裾を縫って高谷集落まで続く旧街道ですが、今回は右折せずに直進です。
直進の山道は高谷集落に直結する道で、江戸時代と比べると拡幅されているのでしょうが落ち葉が深く、気分の良い山道です。
左手に工場群を見る崖の上の道を進むとやがて穏やかな日差しをあびた高谷の集落になります。
どの道を通っても西に進めば落合川に突き当たります。落合川は普段は静かな川ですが、暴れ川で今年も台風で氾濫しました。田畑には水があふれて引いた跡が残っています。
集落が川から離れた高台にあるのは生活防衛ためと納得できます。

川に沿って南下すれば国道に出、旧佐室トンネルまで戻って終了。
3時間程度のハイキングでした。

なお、先ほどの小広場から数十m戻った場所から旧佐室トンネルまで下るショートカットの道があります。その場合ならば全行程1時間半程度の散歩です。

     坂水寺・義人杢右衛門墓所→●
     土岐頼春・苅谷原の戦い→●
     土岐頼春・万木城落城→●

 

関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント