★昔、桑田に矢竹城があった―――万木城攻防戦始末記 


    古沢郵便局の裏手。城というけれど実際は砦に近いものだったろう

わたしたちの里山の会のフィールドのすぐ近くに戦国時代には矢竹城がありました。
土岐頼春の万木城の5つの支城の一つで、城主は浅生主水助(アソウ モンドノスケ)。
彼の兜は金の一文字をあしらった見事な物で近在では有名だったようです。
その主水助が大手柄を立てた物語です。

敵方は長南城主・武田兵部少輔信栄。千葉県長生郡長南町に居城がありました。
甲斐の武田氏とは親戚関係にあり、上総武田氏は真理谷(マリガヤツ)、長南を拠点として勢力圏を広げようとしていました。

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天正17年(1589)4月。長南の武田信栄は永年の敵である夷隅(イスミ)の土岐頼春を攻め滅ぼす絶好のチャンスが来たと小躍りした。
土岐氏は小田原の北条氏によしみを通じており、万木城という天然の要害を拠点としていた。その土岐氏が北条の求めに応じて小田原に300余騎を送ったという情報を得たのだ。城内が手薄な今こそ天の助け、攻め時だ。

信栄は軍議を開き、万木城の有力な支城である鶴ケ城・亀ケ城の勢力を封じ込めれば万木城は要害といえども裸同然。早朝に不意打ちをしかけるという必勝の作戦を立てた。
亀ケ城へ鶴見甲斐と70余騎・足軽射手100人・野武士50人を、鶴ケ城へは一宮隼人率いる50騎・足軽射手70人・野武士100人を夜陰に乗じて派兵し、自らは500余騎を率いて夜半に長南城を出立した。

信栄の本隊は午前4時、松丸に本陣を置いた。周囲よりやや小高い丘で、現在は『よじゅえもんチーズ工房』がある場所である。万木城は目の前の至近距離。戦況が一望に見渡せる。信栄が采配を振り下ろすと、部下は夷隅川を密かに渡渉し、万木城城門に迫った。
城兵は敵兵が攻め寄せているは夢にも知らず、明け方になって敵兵が城下に満ちていることを知って驚愕した。

土岐頼春が矢倉に立って見渡すと、武田勢は無数の楯を並び敷き、鉄砲の一斉射撃をしかけてきた。その援護射撃の下で歩兵が動きだし、大手門の突破の波状攻撃をしかけている。
不意を衝かれた土岐勢は武装もあたふたと配置につくが気が動転している。大岩・大木を坂道に転げ落として時間をかせぎ、土岐頼春の大声の下知にしたがって弓矢・鉄炮で防戦するが連携が取れていない。
敵は大勢、味方は小勢。大手門を突破されるのも時間の問題という時に援軍が現れた。

桑田の矢竹城主・浅生主水助の部隊が松丸の武田軍本陣を急襲したのである。
城攻めに注意を取られていた武田勢はうろたえた。本陣の殿が討たれたら攻城の意味はない。本陣と前線との連絡も途絶えた。その混乱を見た城方は大手門を開いて攻勢に転じた。
同じ頃、支城の国府台(コウノダイ)城主・加治五郎(カジ ゴロウ)が援軍を率いて参戦した。
地の利は城方・土岐勢にある。攻守は逆転し、土岐氏優勢となった。一番槍は27歳の東平源五郎(トウヒラ ゲンゴロウ)。敵を槍で衝き殺し首級を挙げたという。

武田方も奮闘した。前線で指揮を執っていた浅生主水助の自慢の「金一文字」の兜めがけて轟音が一発鳴り響いた。主水助の兜は吹き飛び、落馬転倒した。「浅生主水助殿、討ち取ったり~!!」と武田方は大歓声を上げる。
しかし死亡の記録がないから実際には手負い傷ですんだのだろう。動揺してひるんだ土岐勢の間隙をぬって武田勢は撤退を敢行した。

ところが土岐頼春は敵の退路を予想し、すばやく伏兵を先行させていた。
現在の『睦沢つどいの郷』付近の日之子坂(ヒノコザカ)で武田勢は壊滅的な打撃を受ける。重臣多賀六郎左衛門が討たれるなど散々な目に会い、ほうほうの体(テイ)で長南城に逃げ帰った。
武田方の首級は93。土岐方の死者は雑兵30余名と伝えられている。
土岐頼春率いる土岐勢の見事な勝利であった。―――
                    『房総治乱記』(江戸初期:著者不明)による

土岐勢勝利の要因は絶妙のタイミングで出現した矢竹城主浅生主水助らの奮戦によります。
おそらく地元農民の注進によって主水助は事態の急変を知ったのでしょう。
ということは土岐氏は地元民に愛されていた良き城主であったことが推察されます。
また土岐頼春の采配も適切なものでした。
上総に土岐頼春あり、とその名を関東各地にとどろかせたそうです。

武田勢の敗因は、矢竹城を小城と侮って備えを怠ったこと。実際は浅生主水助は数百名の加勢を繰り出したようですから、地元の農民も加勢したと思われます。それは想定外の出来事でした。
また、『腹が減っては戦ができぬ』といいますが、武田勢は腹が減っていました。昨夜食べたきり、兵糧を持っての攻城戦です。長南から野を越え山を越えてからの攻城戦で、飢えと疲れがたまった頃に土岐の援軍に背後を衝かれて大混乱しました。
一気呵成(イッキカセイ)に落城させるという作戦に無理があったと言えるでしょう。

四百数十年前の出来事ですが、当時は殺し殺されるという戦国時代でした。
男は首狩り族よろしく敵の首級を挙げ、その首実検のために生首を洗い清め、場合によっては化粧を施すのは女の仕事でした。
やがて秀吉・家康による天下統一により土岐氏も武田氏も滅び去ります。それは個々の領主にとっては無念なことであっても、庶民にとっては平和が訪れたことになります。

矢竹城は廃城となり、今は単なる小山にすぎません。それでも登って調査した人の話によれば、かつて城塞であった痕跡がかすかに残っているといいます。
県道夷隅太東線(153号)沿いにあり、昔からの重要な街道を監視する位置にありました。

 

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