★大多喜藩の反射炉遺跡 


   くず鉄や耐火煉瓦破片が露出している

いすみ鉄道は、わたしが小学生の時は国鉄木原線という名前だったと覚えています。
その木原線の歴史を調べていて、おもしろい歌を発見しました。

 鉄道唱歌 ~木原線バージョン~    作詞:苅米繁幸

       10番 大多喜すぎて上原の/台地に反射炉ありしとこ/
               時の城主松平/大砲つくりし処なり

この歌詞を見てびっくりしました。
エッ!! 大多喜に反射炉があったの!?。

反射炉とは、幕末の最新型溶鉱炉のことで、伊豆の韮山(ニラヤマ)には江川太郎左衛門が作った反射炉が現在も保存されています。
反射炉は伊豆韮山の他、佐賀鍋島藩、薩摩藩、長州藩、水戸藩が知られていましたが、大多喜藩は初耳です。
世界大百科事典にも、wikiにも大多喜藩の反射炉は載っていません。もちろん教科書にも。
大多喜の人に聞いても知らないという答えばかり。

大多喜の図書館に問い合わせて資料を見せていただきました。『大多喜町史』『大多喜城物語』(渡辺包夫・市原允共著)
司書の方から小倉土建のそばと聞いたので現地を見てきました。グーグルの写真地図でおよそのアタリをつけていきましたが、台地上にその痕跡はまったくみつかりません。
現状は更地となり、畑地や住宅地となっています。
旧家らしきお宅の人に尋ねたら、鉄くずが露出している場所を案内してくれました。

細い三叉路の一画で、道路面からほぼ1mほど高くなり、雑草をかき分けてみると確かに鉄くずやレンガの破片がうずもれています。道路わきの蓋のある側溝にも散らばっています。
察するに、反射炉を撤去した時のガレキ捨て場だったか、あるいは昭和25年にこの道路ができた時の残渣捨て場だったのでしょう。
では、反射炉本体はどこにあったのか、その地図などはなく、残念ながら不明です。

時の城主は松平正和(マサトモ、1823-1862)。徳川譜代の家柄で小大名ながら開明派であり、ペリーの黒船来航(1853)以来、国防強化のために進んだ海外の技術を採用して国産の大砲鋳造を決意しました。
その溶鉱炉が上原の反射炉であり、製造した大砲は約200門と言われます。
明治維新に際し、すべて官軍に接収され、現在は1門も保存されていません。
反射炉も撤去されて、今は草むらの影で昔を偲ぶしかありません。

反射炉建造では韮山の江川太郎左衛門の指導を受け、地元の鋳物師の棟梁・三上氏の采配で建造されたようです。房総は大昔から優れた鋳造技術の伝統がある地域です。
しかし、耐火煉瓦製造技術や石炭などない時代にどうやったのか、不明な点だらけです。
現地では火力の強い松の木炭が発掘されていますから、石炭ではなく木炭を利用したのでしょう。
鉄鉱石は近辺では鉱山がありませんので原料をどこから調達したのでしょうか。
夷隅川の砂鉄とも考えられますが、大量にとなると考えにくいし、幕末の砂鉄採集事業の話は伝わっていません。
すると、太平洋戦争末期のように、既成の鉄製品やクズ鉄を再利用したのでしょうか。

何もかも記録がなくなり、記憶も薄れ、「台地に反射炉ありしとこ」という歌さえ知る人がいなくなりました。
せめて残土置き場であったと推測される現場を教育委員会が保護・保存の処置をとることを望みます。

参考のために、佐賀鍋島藩の反射炉を描いた図を紹介します。画像元→こちら
     
 
大多喜・上原の反射炉は600平方m、高さ2mの土塁で囲まれていたといいます。
これは反射炉本体のことで、万一、反射炉が崩壊した時に溶けた鉄が暴れないように土塁で囲んだものでしょう。
200門の大砲を作るためには、上記佐賀藩の絵のように付属の工場もあったはずで、倉庫や資材置き場を含めればその敷地は上原の台地全体に広がっていたと思われます。
台地上で黒煙を吐く巨大なレンガの塔に地元の人は度肝を抜かれたに違いありません。

およそ150年前の江戸末期、確かにここに文明開化のシンボルと言うべき耐火煉瓦造りの反射炉があり、そのために汗水流して苦労した多くの人々がいて、その反射炉を誇りにした地域でもありました。
それは忘れてしまうにはあまりにも惜しい事実です。
                                      つづく
   
鉄くず発見場所はこちら→●


 

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子供の頃小倉土建の敷地にあった
防空壕と言われた2つ並んだ穴の中
に入ってよく遊んでいました。
茶色の石?もたくさんゴロゴロありました。
2メートルくらいの高台の横に
穴がありました。
あれが反射炉跡だったら驚きです。