★大多喜藩の海防砲台跡 


  画像は御宿・岩和田海岸の日本メキシコ交流記念塔からみた太平洋
  手前が記念塔(下部)、奥にメキシコから贈られた銅像が小さく写っている
  ここにかつて大多喜藩の大砲が据え付けられていた

鎖国時代とはいえ太平洋は世界につながっているので外国船が来てしまうこともあります。
1609年、スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴを乗せた船がメキシコに向かう途中で遭難し、生存者317名を献身的に救助したのが岩和田の人々でした。ロドリゴは大多喜藩主・本田忠朝とともに江戸城で徳川秀忠、駿府城で家康とも謁見し、翌年、メキシコに帰帆したのは地元では有名な話です。

その記念碑がある場所に幕末には大多喜藩が設置した砲台がありました。
江戸中期以後、ひんぱんに外国船が現れるようになると、幕府は鎖国を徹底するために外国船は有無を言わせず打ち払うように命令し、沿岸防備を各藩に厳命したからです。
その時に大多喜藩が設置した砲台はここ岩和田の他に、もう3か所ありました。

 * 岩船漁港北台地
 * 旧大井村浦北台地
 * 大原漁港小浜八幡神社台地

当時、御宿町から大原にかけての海岸は大多喜藩領(飛び地)でした。
上記合計4か所はいずれも太平洋に突き出た高台で、大多喜上原の反射炉(→●)で鋳造された大砲が設置された模様ですが、4か所とも「大多喜藩砲台跡」の表示はありません。
岩船や大井は記録からあの台地だなと推測でき、ちょっと足を踏み入れてみましたが、どこにもその痕跡を見つけることはできませんでした。残念。
大原小浜神社の砲台跡地なんか、浸食によって崩壊して海に沈んでしまい、今はもうありません。

隣の一宮藩(藩主:加納久徴 カノウヒサアキラ)が設置した一宮町の砲台跡地はきちんと整備されているのと比べると、ほとんど「無視」と言ってよいでしょう。
そのため、大多喜藩の砲台跡地はどこですかと地元の人に聞いても知らない人ばかり。

当時、4か所の砲台には見張り場もあり、藩士と村役人が常駐しており、一朝事あれば大原小佐部(オサベ)にあった大多喜藩陣屋から急使が城にたち、城から江戸に知らせる手はずになっていました。
小佐部陣屋跡は国道128号小佐部信号脇に未利用地として現在も残っており、陣屋跡という石碑もあります。

ところで、御宿から南、鴨川にかけては埼玉県の岩槻藩の砲台が11か所ありました。
埼玉県からなぜわざわざと思いましたが、岩槻藩主阿部氏は元大多喜城主で、岩槻に転封になった後も勝浦やいすみ市に領地をもっていました。
それで岬町中滝に岩槻藩陣屋がありました。現状は農地でそのおもかげはありません。
ともかくその縁で外房の海防を命じられたのでしょう。

文久3(1862)年、生麦事件が起き、対英賠償交渉は難航し、翌年幕府は戦争準備を各藩に指令して房総も一挙に緊張感が高まりました。
大多喜藩・松平氏は率先して戦う旨(ムネ)、幕府に回答するとともに農民兵を招集しました。総力戦の意気込みです。これは士農工商の枠組みを越えた国民皆兵制度のさきがけでした。
岩槻藩阿部氏の発した文書によれば、黒船が現れたらスキ・クワ・ナタなど武器を持った村人を集め、鯉のぼりでも何でも旗を掲げて備えがあることを黒船に示せとあります。

黒船の大砲の射程距離は2~3kmなのに、お台場の大砲はその半分も飛ばず、試射したら350mだったというあわれな話も伝わっています。
江戸では引っ越し・避難騒ぎも起きていましたが、物見高い江戸庶民は「怖そうで怖くないのは台場の大砲、小屋掛けお化け」と揶揄(ヤユ)したそうです。
国家機密をばらしたと逮捕されそうな話ですが、彼我(ヒガ)の実力の差は庶民にも知られていました。

では大多喜藩の新造大砲はどのくらいの威力があったのでしょうか。
残念ながらその資料が全く見当たりません。

1868年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は大敗北を喫し、徳川慶喜は江戸に逃げ帰ります。
鳥羽伏見戦の幕府軍総裁は大多喜藩主・松平正質(マサタダ)でしたから、薩長新政府からきびしい処断をうけました。大多喜城は無血開城、全財産差し押さえです。
ところが提出した武器弾薬一覧に新式大砲が一門も記載されていません。
上原で200門も製造したという大砲はいったいどこに消えてしまったのでしょうか。

そのため本当は大砲は製造されなかった、上原の反射炉は失敗だったという説もあります。
日本史教科書やwikiに大多喜藩の反射炉が一行も記述されていないのは、記載すべき中身がないということなのでしょうか。

私の手元には上原で拾ってきた溶けた鉄クズが一つ保管してあります。
上原には確かに反射炉があった証拠として。
大多喜藩の反射炉―――いつの日にか資料が整い、その全容が明らかにされることを望んでいます。

  

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